啓明からの距離2

 樺太の玄関口、大泊。かつてはロシア領だったこの地が「大泊」と改称されたのはごく最近のことだった。小樽と同じ港湾都市であるこの街に私はどことなく懐かしさを感じる。まだ小樽を離れてから半年ほどしか経っていないというのに、ずいぶん昔のことのようだ。体感としては一生分くらいドタバタしていたような気もする。
 この街で買い出しを済ませるというので、私は尾形上等兵に同行した。キロランケさんたちとは1時間後に集合場所で落ち合うことになっている。私は目の前でひらひらと揺れる尾形上等兵の白い外套をなんとなく見つめながら、でもはぐれないように追いかけた。その心中は決して穏やかではない。色々と考えなければならないことがあった。聞かなければならないことがあった。なのに、普段ならベラベラと勝手に動き出すはずの私の口は縫い付けられたように開こうとしない。私と尾形上等兵は無言のまま一つずつ用事を片付けていく。銃弾を補充し、日持ちのする非常食を揃えた。私は「北へ行く」以外なにも知らされていない。果たしてこれから北へ行ってなにをするのか。なんのために北へ向かうのか。それは私自身が考えなければならない問題でもある。
 ひと段落ついたところで尾形上等兵が私を振り向き、頭から足先までをじっと観察したあと口を開いた。

「これから冬が来る。その恰好じゃ凍死するぞ」
「……たしかにそうですね……」

 私の着物は初夏の頃、谷垣に買ってきてもらったもののままだった。北海道より遥か北に位置する樺太で越冬できるような装備ではない。そこで谷垣のことを思い出す。結局谷垣ともあれきりだ。第七師団に捕まってしまったと尾形上等兵は言っていた。私は嫌な想像を頭から追い出すように首を横に振る。

「……なにしてんだ」
「あ……いや、その……谷垣は大丈夫かな、って」
「さあな。俺たち同様脱走兵扱いになっているなら……まあなにかしらの罰は受けるだろうな」
「……」
「今更心配したところで無意味だろ。それとも、今から戻ってお前が鶴見中尉に弁解するか?『谷垣は脱走するつもりなんてありませんでした』と」
「……いえ」
「谷垣のことは忘れろ。俺たちにはもうどうすることもできん」
「…………はい」
「それより。なんでも良いから防寒着を買ってこい」
「……はい」

 それでも私はぼんやりと北海道の方へ思いを馳せる。なぜだか寒さなんかよりも網走に残してきた谷垣たちのことが気がかりで仕方がない。そうするしかなかったとはいえ、あれでは見殺しにしたようなものだ。しかし尾形上等兵の言うように今更戻れるわけでもない。取返しのつかないことをしたという罪悪感、無力感が胸の内で膨らんでいく。私が生返事をしたまま動けないでいると、やがて尾形上等兵は大きくため息を吐いた。

「時間まであと20分はある。来い、

 尾形上等兵が私の腕を掴んで進んでいく。土地勘のまったくない私はどこを歩いているのかもわからないが、尾形上等兵はどこになにがあるのかを知っているのだろうか?迷うことのないしっかりとした足取りからふと疑問に思う。連れてこられた洋品店でもなすがまま襟巻に羽織にとあれやこれやを当てられ、よくわからないまま店を後にした。

「戻るぞ」

 再び腕を鷲掴みにされ、私は半ば引きずられるようにして集合場所へ向かう。

「尾形上等兵殿……」
「なんだ」
「私、着いてきて良かったのでしょうか」
「そんなこと俺は知らん。お前が自分で確かめろ」
「……はい」

 突き放すようでいて振りほどくでもない物言いだ。私は確かめなければならない。今はまだ考えがまとまらないけれど……それはきっと谷垣たちや色んな人を犠牲にしてきた私の使命だ。そうでなければ私も彼らも報われない。
 まだ時間前ではあるが、集合場所にはすでに私たち以外の全員が揃っていた。そしてもう一人、知らないおじいさんがキロランケさんの傍らに立っていて、なにやら話し込んでいる。

「おっ、ちゃんてば、随分かわいいの着てるじゃん」
「ど、どうも……」
「ちゃんと暖かくしないと、風邪引くからね」
「……白石さんは変わってないように見えますけど」
「いやいや、これ結構暖かいんだよ?」

 白石さんが自身の身に着けている半纏を指す。たしかに、綿の入った半纏は私も以前愛用していたけれど。そういえば白石さんは出会った頃からずっと同じものを着ているようなので暖かいのは本当なのだろう。よく見ればキロランケさんも暖かそうな毛皮を着込んでいた。冬が来る。私はかつてないほど不安な冬を迎えようとしている。

「アシリパさんの毛皮も、すごく暖かそうですよね」
「……ああ。これはレタラの……」
「レタラ?」
「そうか、は知らないんだったな……」

 いつもより声に元気がないものの、アシリパさんは毛皮を手に入れた経緯を語ってくれた。私が彼女と出会ったのは暖かい季節だったから、今まで布団のような使い方をしているところしか見ていなかったが、きっと私たちの中で一番防寒性に優れているのではないだろうか。

「よし、全員揃ったな。この先の村で刺青の囚人の目撃情報があった。今日はこの人の村に泊まらせてもらえることになったから、明日そこへ向かおう」

 別行動の間にもキロランケさんは聞き込みをしていたようだ。樺太まで来ているということは、金塊には興味のない囚人なのだろうか。

「白石さん、囚人に心当たりはありますか?」
「さすがにこれだけじゃわからねえなあ」

 ……ですよね。自分でも無茶ぶりの自覚があったので、それ以上は追及しなかった。ともかく私は樺太上陸初日が野宿とならなかったことを心の中で大いに喜んだ。
 おじいさんの住んでいるアイヌの集落はここから数キロ先にあるというので、彼を先頭に森の中を抜けていく。

「この森にはとても狂暴な野生動物がいる。お前たち、はぐれないように気をつけろよ」
「……わかったか?
「ええっ……私ですか?」
「お前が一番危ねえ」
「……き、気を付けます」

 なんだか釈然としないが、そんな真面目な感じで言われてしまっては頷くしかない。とはいってもここは一本道だ。迷えと命令されても難しいだろう。結局その野生動物とは遭遇することなく、私たちは無事にアイヌの集落へとたどり着いた。おじいさんの家の周りにはたくさんの犬が繋がれている。か、かわいい……。犬に近づこうとしたが、私の襟首は敢え無く捕獲され、「うろちょろすんな」という尾形上等兵の小言とともに強制連行されていった。
 暖かい家の中に入ると、アシリパさんと知らない女の子が隣り合って座っていた。北海道アイヌと樺太アイヌでは言語が違うものの、どうやらこの樺太アイヌの女の子はアシリパさんと同様日本語がわかるらしい。彼女――エノノカちゃんが日本語でなにやら話かけ、アシリパさんは小さく頷いたりぽそぽそと呟いたりしている。同年代の女の子同士で話をすれば、少しは元気を取り戻せるだろうか。一方でキロランケさんはおじいさんの方と会話していた。こちらはアイヌ語のようだが当然の如くさっぱりわからない。私は白石さんと一緒にお茶を頂きつつ頭に疑問符を浮かべることしかできなかった。

「なにを話しているんでしょう?」
「さあねぇ。俺は日本語以外はからっきしだ」
「自分もです。尾形上等兵殿は日本語以外になにか話せますか?」
「……わかるように見えるか?」
「うーん、銃に関することなら知ってそう…………あっ!私、英語なら少しわかりますよ」
「ほんとに~?例えば?」
「えっと……ら、ライフル!」

 正直これを知っていたからといって得意げな顔をできるようなものではない。これくらいならきっと尾形上等兵も知っているだろうし。しばらくして、エノノカちゃんから赤い実を勧められた。フレップというらしい。そのフレップの塩漬けを頂きながら、キロランケさんに今後の行動計画を聞く。

「予定通り北へ向かう。だがその前に刺青の囚人の情報をたしかめておこう。さっきも話した、ロシア人の村だ」

 北とはやはりロシアのことだろう。頭の残念な私でもわかる。ただキロランケさんが金塊を探す目的はまだわからなかった。杉元さんや、土方さんとは異なるなにかがあるような気がする。もちろん、鶴見中尉とも違うなにか大きな目的が。そして尾形上等兵はそれを知っているのだろうか。キロランケさん以上に尾形上等兵の目的がわからないことが、不安を払拭できない一因でもあるのだ。