時々わからなくなる。自分の生が、存在意義が、ほぐれて、あやふやになって、溶けて、消える。本当にこれでいいのだろうかと迷う。後悔する。それは天涯孤独の身となってから始まった。私はずっと父と兄の庇護のもとにいた。なにも知らなかった。父の苦悩、兄の深憂は最期まで私へ明かされることはなかった。そして二人の亡骸とともに永久に闇へと消えたのである。守ることには犠牲を伴う。20余年の中でそのことに気付いたのは、皮肉にも彼らの死後だった。尾形上等兵殿。次に失うのは尾形上等兵かもしれない。そして今度こそは失いたくないという恐怖が私の中で増幅していく。そのために、私はなにを犠牲にすればいいのだろう。
「ちゃん大丈夫?」
5人で乗るには少し小さな舟に揺られ、私たちは網走監獄を脱出した。灯りを消し、波を立てないようじれったいほどゆっくりと舟を進める。頭が痛い。くらくらする。舟まで逃げてきた辺りから酷い頭痛に襲われている私は、舟の縁にもたれかかってじっと耐えていた。白石さんが心配そうに私の顔を覗き込んできたが、私なんかよりアシリパさんの方がずっと辛いはずだ。こんなことで弱音なんて吐けない。そう思って首を縦に振る。現に憔悴しきったアシリパさんは見ていられないほど痛々しかった。こんなとき、なんて声を掛けたらいいのだろう。なにもしてあげられなくて、私はただ彼女に寄り添うことしかできない。
『貴様にできることはない』
戦争が始まるずっと前、尾形上等兵にそう言われた。その通りだ。私は無力で世間知らずな子供だった。やってみなければわからない、などと強がってみてもそれが現実だ。大切な人を理解し共に生きることも、すぐそばにいる小さな女の子を元気付けてあげることも叶わなくて、痛いほど思い知らされる。それなら私がここへ来た意味は一体なんだろう。――この先へ向かう理由はなんだろう。
ぐったりと舟のヘリに体を預けて考え事をしていた私の肩が突然ぐいっと引っ張られた。抗えないまま倒れこんだのは尾形上等兵の膝の上だった。わずかな光を反射する双眸が私を見下ろしている。
「少し寝ておけ」
「いえ……だ、大丈夫ですから!」
起き上がろうとしても尾形上等兵に押さえつけられて動けない。こんな状況じゃなきゃもっと喜べたのに……!ガンガンと脳みそいっぱいに響く痛みは相変わらずで、せっかくのこの状態を思う存分堪能できないのが非常に悔しい。それにしても。
「……固い」
俗に言う膝枕ってやつなのだけど、思っていたより寝心地は良くない。というか、岩みたいに固い。相手が女性ならまた違うのだろうか。あいにく経験がないので比べようがない。私の一言で尾形上等兵は小さく舌を打った。
「文句を言うな」
「でも、私……」
「今は余計なことは考えなくていい。着いたら起こしてやる」
「本当ですか?」
「……どういう意味だ?」
「だって……尾形上等兵殿は、いつも一人でさっさといなくなるから」
「こんなところで放り出したら本当に野垂れ死にしちまいそうだからな、お前は」
「……嬉しい、です」
「わかったらさっさと寝ろ」
その一言がなにかの呪文のように私の中へ染み込むと、すぐに眠りに落ちた。
私は悪夢を見る。でもそれは起きたときには忘れていて、なんの夢だったのかはさっぱり思い出せなかった。ひとつだけたしかなのは、同じ夢を繰り返し繰り返し見ているということだけだ。ただのカンだとか、そういったものではない。わかるのだ。悪夢は私になにかを訴えている。言いたいことがあるなら面と向かってはっきり言えばいいのに……などと文句をつけたところで効果はなく、夢の中の私は数年もの間ひたすら無言の圧力をかけてくる。悪夢は言い知れぬ不安だけを残し、決して現実を侵すことはなかった。
***
眩しさで目覚めると、どこかの港に着いていた。明るい空に鳥が飛び交っている。視線の先には青空を背負った尾形上等兵の横顔があって、ぼんやり見つめていると目が合ってしまった。尾形上等兵はなにも言わずに視線を逸らした。今までなら問答無用で叩き起こされていてもおかしくないのに。名残惜しいが港に着いてしまったようなので仕方なく起き上がる。頭が割れそうな痛みも治まっていた。ここで乗り換えるらしい。目指すのは樺太だ。キロランケさんは私たちにここで待っているように告げると、尾形上等兵と連れ立って離れていった。アシリパさんたちも一緒にいるからこのまま私だけが置き去りにされることはないだろうという消極的な安心感もあって、素直に従うことにする。
「体調良くなってよかったね、ちゃん」
「はい……ご迷惑おかけしました」
「疲れがでたんじゃない?ずっと気を張ってたでしょ。……それにしても、尾形ちゃんがあんなことするなんて意外だったな」
白石さんが僅かに首を回して背後を盗み見る。その視線の先には海に向かって並び立つ尾形上等兵とキロランケさんが居た。それだけなのにどうして胸がざわつくのだろう。
「なあアシリパちゃん……誰が杉元たちを撃ったのか、門の上から見えたか?」
白石さんの問いかけに、私は思わずぎくりとした。彼は尾形上等兵を疑っているのだろうか。考えたくない。考えないようにしていた。私は尾形上等兵の味方でありたい。使い古された表現だけれど、もし尾形上等兵が世界を敵に回しても私だけはきっとあの人の味方でいられると思っていた。その根底がぐらつくのを感じて私は恐怖する。だめだ、だめだ。私が信じなくてどうする。今自分にできることは……それだけなのだ。
アシリパさんは力なく首を横に振った。私はその瞬間を見ていない。照明弾のせいもあって発砲音も方角もわからなかった。目撃証言がなければ、あれが尾形上等兵によるものだという証拠はどこにもないのである。では同じく屋根の上に居たインカラマッさんやキロランケさんはどうだろう。
「なにをぼけっとしてんだ」
「あ、すみません」
「早く来い」
用が済んだのか、気付けば尾形上等兵がそばまで来ていた。言われるがまま、彼の背中を追いかける。網走川から乗ってきたものより少し大きな船に乗り換えた私たちは再び陸を離れた。次に土を踏むのはきっと樺太だろう。終戦後は北海道に引きこもったまま一生を終えるつもりだったのに、人生とはわからないものだ。
「気分は良くなったのか」
「あ、はい」
「船酔い……ではなさそうだな」
「そうですね。きっと網走監獄潜入作戦で緊張していたんだと思います」
「……お前が?」
「そりゃ私だって緊張くらいしますよ」
なんですかその意外そうな顔は。いや、表情は真顔なんだけど。
「……これからどこへ向かうのですか?」
「方向感覚がぶっ壊れてるお前に言っても理解できないんじゃないのか?」
「うっ……そう、かもしれないですけど!」
「このまま北上する」
「北上……ですか」
「北がどっちかくらいはわかるだろう?」
「はい。上の方ですよね」
「………………ああ、そうだな」
「あッ!ちょ、匙を投げないでください尾形上等兵殿!」
つまり、ロシアへ向かっているということで合っているだろうか。私はうろ覚えの世界地図を頭に浮かべ、北海道と樺太を思い出す。死闘を繰り広げた相手であるはずなのに、その位置関係は割とぼんやりしていた。ロシア本土は樺太の上だったか、横だったか……それとも両方?なにせ世界最大の面積を誇る大国だ。「日本がいくつあっても足りない」と誰かも言っていた。慣れ親しんだ故郷の陸地が遠ざかっていくのを船の上でなんとなく眺めていると、出征したときの記憶も蘇る。……また、戻ってこられるだろうか。急に心細くなって隣の尾形上等兵を見上げたら、彼もこちらをじっと見ていた。
「……な、んですか……?」
「いや」
ふい、と後ろを向いた尾形上等兵はそのまま座り込んでしまった。相変わらず読めない。