朱仄へ19


「はい」
「俺が指示を出したらすぐ戻れ」
「……はい」
「不満でもあるのか」
「いや、そうじゃないですけど……それって私を心配してくれてるんですよね?」
「肯定以外受け付けない奴がなにを言ってやがる」
「えっ!じゃあまさか肯定してくれるんですか!?」
「誰がそんなことを言った」
「……」

 尾形上等兵は何度もしつこく自分の待機場所を私に言い含めてから暗闇に消えていった。心配されているというよりも不安がられているというかなんというか。そんな、初めてのおつかいじゃあるまいし……と若干不満を零しつつ私も尾形上等兵とは反対方向へ向かう。
 10月ともなればもう夜の空気はひんやりとしていて、すでに冬の気配が漂っていた。寒いというほどでもないが、風が強いせいもあってむき出しの指先からは徐々に体温が奪われていく。時々両手を擦り合わせながら、私は双眼鏡で杉元さんたちが監獄内に侵入する様子を見守った。といっても真っ暗でほとんどなにも見えない。侵入経路はあらかじめざっくりと教えてもらっていたので、そのあたりに動きがないかを注意深く観察する。
 数十分ほど経った頃、小さな灯りが見えたかと思うとすぐにまた消えた。なんだろう?まさか見つかったのかと心配になり尾形上等兵からの合図を確認したがいくら待っても指示は飛んでこなかった。どうやら作戦続行で問題ないらしいと判断し、視線を戻す。やがて屋根の上に人影が見えた。それらは屋根の上でごそごそと動いたあと、姿を消した。恐らくあれが杉元さんたちだろう。ということはここからが本番である。
 しばらくは静寂が続いた。光の届かない静かな暗闇で風の音だけがうるさい。今のところ作戦に支障をきたすような重大な問題は発生していないようである。私は定期的に尾形上等兵のいるはずの方角を確認する。もちろんあたりは真っ暗なので彼の顔を視認することはできない。それでもたしかに居るのだと思えば心細くはならなかった。と思った直後、風の音をかき消すほど大きく鐘が鳴った。失敗……その絶望の二文字が脳裏に浮かぶ私の横目に光が見えた。尾形上等兵のいる方角から微かに橙色が煌めいている。私はすぐに傍らの洋灯を灯して応答した。遠くの橙色がチカチカと不規則に点滅する。非常の合図だった。私は即座に応答して灯りを消し、撤退の準備に入る。
 もと来た獣道を慎重に進みつつ、私は僅かに胸騒ぎを覚えた。なにかがおかしい。もう一人の私がそう言っている。撤退が早すぎないだろうか?私たちの役割は援護射撃だ。まだ監獄内にいる杉元さんたちを残して撤退なんて……本来の役目を果たせていないじゃないか。尾形上等兵は戦場で冷静さを欠くような人ではない。少なくとも今まではそうだった。ならばこの判断も正しいはず。心のどこかで信じたい気持ちと疑念がごちゃ混ぜになって頭をぐるぐると駆け巡る。

「……とりあえず、戻ろう」

 なんとなく声に出してみた。不安で心細いときは独り言を言うのだ。そうすれば現実はどうあれ気持ちは少しだけ落ち着く……気がする。とにかく私はもう持ち場を離れてしまったのだから、合流を目指しつつ状況に応じて援護するしかない。明かりを灯さず道なき道を手探りで進んでいると、河口の方に等間隔で光が並んでいることに気付いた。なんだろう?と思っているうちに暗闇を裂くような轟音が響いて、地面が揺れた。網走監獄と対岸を繋ぐ大きな橋が崩れ落ちる。……まさか。気持ちだけが逸って足が進まない。でこぼこの土や無造作に転がる石に足を取られながらもなんとか半分ほど戻ったところで双眼鏡を覗くと、もうすぐ近くにそれは迫っていた。長蛇の陣形を取る複数の水雷艇だった。鐘は鳴り続けている。再び歩を進めているうちに二度目の爆発が起こった。巨大な網走監獄の外壁に穴が開き、続いて照明弾が打ち上げられる。私は照明弾の下に広がる惨状に息を呑んだ。監獄内がめちゃくちゃに蹂躙されている。戻らなきゃ。尾形上等兵に会わなきゃ。それからはみんなのところへ戻ることだけを考えて一心不乱に足を前に出した。

ちゃ~ん!こっちこっち!」

 正門に人影が見えた。一瞬敵かと思い銃を構えようとしたが、誰かが私の名前を呼んで手を振ってきたので腕を下ろす。

「よかった~無事だったんだ」
「白石さん!谷垣も!よかった……もう会えないかと」
「またはそんな大げさなことを……」

 谷垣と白石さんを見てほっとした私は抱き着く勢いで駆け寄った。だが周囲を見渡しても彼ら二人以外の姿が見当たらない。まさか全滅……ということはないだろうけど、この状況を見るに無傷ではすまなさそうだ。

「みなさんは……」
「まあ話すと長くなるんだけど……今屋根の上にアシリパちゃんたちがいるよ」
「杉元とははぐれたらしい」
「……尾形上等兵は」
「俺はまだ見ていない」
「……」
「大丈夫だ。あの男が簡単には死なないのはお前がよくわかっているだろう」
「……うん」

 谷垣が私の肩をぽん、と叩いて慰めてくれる。不安な顔をしている自覚はあった。彼の言う通り、尾形上等兵がそう簡単に死ぬはずがない。そんなことはわかっている。でも顔を見ないと不安なのだ。……それから、さきほどの僅かな違和感もまだしこりとなって残っていた。尾形上等兵はまだ留まっているのだろうか。だとしたら何故私だけ撤退させたのだろう。いや、尾形上等兵の持ち場は私より遠かった。まだ戻っていないのはなにも不思議じゃない。

「杉元さん、のっぺら坊を見つけられたのかな……」

 監獄内からは絶え間なく爆発音や咆哮が聞こえてくるが、私たちのいる正門前は静けさを保っている。待つだけというのは、辛い。狙撃手というのは待つのも仕事のうちだ。そう教わっているにも関わらずどうにもそわそわして仕方なくて、隣の谷垣に確認しようもない話題を振ってみた。

「杉元はやると言ったらやるさ」
「……そうだね。インカラマッさんかキロランケさんが死んだら、残った方を殺すって言ってたときめちゃくちゃ怖かった」
「……そうだな」

 しばらくして、上の方から微かに叫び声が聞こえた。風向きのせいか不明瞭だがアシリパさんのようだった。キロランケさんがアシリパさんを腕に抱えて降りてきたが、なにやらもめている。

「ダメだ!!二人を撃った奴が近くにいるッ!」

 杉元さんとのっぺら坊が撃たれたらしい。私はほとんど無意識に周囲を見渡して尾形上等兵が戻ってこないか確認した。そんなこと、思っちゃいけないはずなのに。違う。私は安心したいのだ。あの人じゃないことを確かめたいだけなのだ。そうやって私が考え事をしている間に谷垣は杉元さんとのっぺら坊の救出へ向かったらしく、白石さんに腕を引かれる。

「行こう、ちゃん。ここでぐずぐずしてたら俺たちまで捕まっちまう」
「待ちなさいッ!あなたさっき屋根の上から……」
「アシリパを連れて行けッ!この女は危険だッ!」

 キロランケさんのすごい剣幕に気圧されて白石さんと私でアシリパさんを無理やり引っ張って行く。予備の舟はすぐに見つかった。

「……あれ?夏太郎くんは?」
「牛山と教誨堂に行ったきりだ」
「教誨堂?」
「土方歳三の助太刀だとさ」

 私が下山している間に随分しっちゃかめっちゃかになっている。白石さんから状況を教えてもらったものの私の頭は未だ混乱中だ。そもそもどうして第七師団がここに……いや、鶴見中尉が、というべきか――それもこんな狙いすましたかのように。やはり尾形上等兵の読み通りインカラマッさんは鶴見中尉と内通していて、なんらかの方法で作戦を伝えていたのでは……。
 頭がガンガンする。一体なんなのだ、なにが起こっているのだ。明らかに許容量を増えた情報が激しくぶつかりあい、脳の中で暴れている。私が頭の整理をできずにいたところへキロランケさんがやってきた。……インカラマッさんは、どうしたんだろう?と暗闇に目を凝らしていると続いて尾形上等兵が現れて私はほっと息を吐く。

「舟を出せ。逃げるぞ」
「尾形上等兵殿、谷垣たちがまだです」
「……谷垣源次郎は鶴見中尉たちに捕まった」

 捕まった……ということは、一応生きてはいるらしい。だが、尾形上等兵はアシリパさんの父親……のっぺら坊と杉元さんは死んでしまったとはっきり告げた。私の心臓はまだどくどくと激しく脈打っている。二人を撃ったのは誰だ?あの混乱の中で杉元さんたちを狙い撃ちできる人間が果たして監獄側に居ただろうか。頭が痛かった。なにも考えられないほど頭痛が酷い。



 はっと我に返ると、舟に乗った尾形上等兵たちがこちらを見ている。陸に立っているのは私一人だった。尾形上等兵が私に手を差し伸べる。「行くぞ」と囁いたその声はどこか優しい。そうだ、私はこの手を取るためにここまで来た。躊躇う理由なんてないはずだ。できる限り体の震えを悟られないように気を付けながら私はその手を取った。

次から樺太編です。な、長かった・・・・。
何気にもう2年経つんですよね。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。