朱仄へ17

 この網走監獄で看守部長の立場にある門倉さんという人は内通者だった。彼の父親は旧幕府軍として土方さんと共に戦い、それが縁となった。看守は囚人たち側の人間が多い、と聞いても私にはピンとこなくて首を傾げる。そういうものなのだろうか?明治も30年を過ぎて、いや、たった30年前のことのはずなのに、幕府も明治維新も遠い過去の話のように思われる。私が生まれたときにはもう徳川幕府は「過去」であり、維新の十傑や土方さんたちといった所謂逆賊と呼ばれる幕臣たちも歴史上の人物でしかなかったのだ。そもそも私は父親や母親の国さえ知らない。父は「母さんとは駆け落ち同然で飛び出してきたから、もう故郷はないんだよ」と言った。門倉さんのいう理屈がいまいち理解できないのはそういった郷土愛的な感覚の欠如も一因かもしれない。

「犬童典獄の指示によって毎日独房を移されるのっぺら坊が、再来週の新月の夜にどこの監房へ移動されているのか、俺は正確に予想ができる」

 門倉さんが土方さん側の人間だとしたら、その信頼性はどれほどのものだろう?疑心暗鬼になりすぎている自覚はあったが、あの海岸での一件以来そんなことばかり考えてしまう。自分以外の全員――アシリパさんや杉元さんは別として――信用できないと言っても過言ではなかった。もちろん、その中には尾形上等兵も含まれている。尾形上等兵は金塊目当てに軍を抜けたのだろうか。金儲けや一攫千金なんかには興味がないと思っていた。いや、たった数年一緒に過ごしただけで、全部わかったつもりになっていただけかもしれない。現にこうやって外の世界で生きる彼は私の知らない顔ばかりなのだから。

「あの看守のおっさん、信用できると思うか?」

 アイヌの村へ帰る途中、杉元さんがぽつりと零した。それは独り言のようにも聞こえたが、どちらにせよ私もキロランケさんも答えられない。信じられないとしても無理やり信じるしかない、それが私たちの置かれた状況だった。

「なんか幸薄そうな人でしたね」

 代わりに私は彼の第一印象を述べる。土方さんに加担した理由を語る門倉さんはなにかを悟ったような、諦めたような、そんな寂し気な顔に見えた。

「そうか?俺には食えないタヌキおやじに見えたけどな」

 以前直接顔を合わせたことのあったキロランケさんの受けた印象は、私とは真逆と言える。あの時私は奥に隠れていて声を聞いただけだったが、その会話はなんだかのらりくらりと掴みどころのない感じだったことを思い出す。土方さんに協力していたということは全部演技だったことになるのだからキロランケさんがそう思うのも当然かもしれない。
 それにしても私たち金塊探し一行は猫だのキツネだの熊だの、動物ばかりだな。そして今回たぬきが仲間入りしたわけだ。ちなみに私はちょこまかと鬱陶しいからという理由で「コバエ」と称されたことがある。できればもっと可愛いものに例えてほしかった。年頃の女の子を虫呼ばわりはちょっとないと思う。
 私はその名付け親である古年兵……野間さんを思い出して寂しさがこみ上げる。あの殺しても死ななそうな男がもうこの世にいないなんて。野間さんだけじゃなく、身近な人達がもう何人もこの金塊争奪戦の最中で死んでいる。戦争は終わったはずなのにどうしてだろう。私は馬鹿だから、鶴見中尉の思い描く未来への道のりがこんなに険しいなんて知らなかった。宝探しみたいだ、などとのんきに笑っていた頃の自分を張り倒したい。尾形上等兵が言っていたのはこのことだったのだろうかとふいに気付く。私はわかっていなかったのだ。今までもこれから先も、金塊を手にするためには多大なる犠牲が必要なことを。



 ぼんやりとごはんを頂いてぼんやりと眠っていつの間にか朝を迎える。トンネル開通工事という一大事業を終えた私の役割はもう当日に残されるばかりであった。詳細な計画も、実行犯である杉元さんたちに任せきりである。
 代わりに私と尾形上等兵との間で合図だけは決めてあった。それも「作戦終了」「緊急事態発生」の二種類だけなのですぐ終わってしまったのだけど。「作戦終了」なら尾形上等兵と合流して撤退、「緊急事態発生」なら誰でも良いからとにかく近くにいる者と合流、それが難しければアイヌの村まで一人で全力ダッシュで撤退、だ。私たちだけこんなゆるい感じで大丈夫なのだろうかとほんのり不安を感じたものの、まあ実際狙撃手の役割なんて限られているからこれはもう宿命みたいなものだろう。今回私に与えられた役割は援護射撃だけなのだ。
 決行は次の新月の晩に決まった。暗闇に紛れて侵入し、何事もなかったかのように再び闇に消えなければならない。少し前にも同じような状況に遭遇したような気がしないでもないが、今回は都丹庵士がこちら側にいる。死闘を繰り広げた相手ではあるが味方だとこんなに心強いことはない。早くもやり切った感のある私はその日の鮭尽くしの夕食を心置きなく味わっていた。

「チタタプとは本来鮭のチタタプのことを指すんだ」

 アシリパさんの豆知識を耳に入れつつ、杉元さんの様子がちょっとおかしいのを少し遠くから他人事のように眺める。彼も大事の前で気分が高揚しているのだろうか。例によって順番に小刀が回ってきたので、そつなくこなして尾形上等兵へ渡す。そこへやってきたアシリパさんが尾形上等兵に「みんなチタタプ言ってるぞ?」と促した。いやいや、尾形上等兵が言うわけな…………

「チタタプ」

 一瞬自分の耳がおかしくなったのかと疑い、急いで尾形上等兵の方へ顔を向けたがそこには普段通り真顔の尾形上等兵が無言でチタタプしているだけだった。だがアシリパさんも「言った!!」と興奮しながら杉元さんたちに確認していたのでどうやら幻聴ではないらしい。杉元さんたちは微妙な顔をしていたが。

も聞こえたよな?」
「……た、たぶん」

 正直あまり自信がなかった。なにせ「みんなで心をひとつにして乗り切ろうぜ!」的な爽やかさとは無縁の人である。私でさえ半信半疑なのだから杉元さんたちの反応も当然だろう。それよりも私が気になっているのは尾形上等兵がアシリパさんに特別優しいことだった。優しい……というか、うーん、なんと言えばいいのだろう。懐いている、と言った方が正しいだろうか。自分が知らない彼の一面を目の当たりにするとき、その元となっているのはいつもアシリパさんだった。そりゃ、アシリパさんは私よりしっかり者だし料理も上手だし……あらゆる面で私より遥かに優れているのはわかっているけど、悔しさだけはどうしようもない。尾形上等兵が必要としているのは私ではなくアシリパさんなのだと突き付けられたようで、悔しさや悲しさとともに途方もなく大きな喪失感が襲ってくる。みんなと気持ちをひとつに、と言ったアシリパさんの思惑とは違って私は一人だけ置いてけぼりのようだった。

「お前もあれ真似すれば」
「えっなに?」

 考え事をしていた私の脇腹をつっついてきたのは夏太郎くんだった。状況がさっぱり読めない。なんの話かと説明を求めると、アイヌのしきたりで「女が男の家に行ってご飯を作り、男は半分食べた器を女に渡し、女が残りを食べたら婚姻が成立する」というのがあるらしい。それで谷垣が出て行ってしまったという。たぶん、谷垣は怒っているわけではないのだろうと思う。お互い憎からず思っているのは見ていればわかるだけにこちらとしてももどかしい。

「って肝心の尾形上等兵殿がもう完食しちゃってるじゃないですか!」
「自分の飯なんだから当然だろ。なにを期待してんだ」
「……おかわりいかがですか?」
「いらん」
「あんたの分を尾形さんに渡せばいいんじゃねーの」
「え、逆もアリな感じ?」
「いや知らねえけど」
「……」
「代わりに俺の飯でも食うか?」
「夏太郎くんはその長髪を五分刈りにしてから出直してきて」
「……なんでだよ!尾形さんだって長髪なのに!」
「尾形上等兵殿にはちゃんと坊主の時期があったからいいの」
「屁理屈すぎるだろそれ……」

 夏太郎くんときゃいきゃい騒いでいるうちに尾形上等兵がいなくなっていることに気付いて、私は自分の分を急いで完食して後を追う。尾行しようとしていた私の行動を読んでいたのか、尾形上等兵は入口の横に佇んでいた。ま、待ち伏せだとッ!?というか暗闇に浮かび上がる尾形上等兵とか普通に怖い。いくら好きな人でもびっくり系はごめんである。

「どこへ行くつもりだ?」
「えっと……か、厠……」
「嘘をつけ」
「わかってるくせに……いじわるですねぇ」

 バレたものは仕方ない。私は地面に転がる小石をつま先で蹴って気まずさを誤魔化した。つい追いかけてきてしまったが、一体なにを話せばいいのやら。

「あの日泥のやつと随分仲良くなったみたいだな」
「日泥?」
「さっきお前が話していた男だ」
「……あぁ、夏太郎くんのことですか。なんか、馬が合うみたいなんですよねぇ」

 久しぶりに陸軍関係者以外で自分と同年代の人に会ったせいもあって、夏太郎くんと打ち解けるのに時間はかからなかった。やっぱりなんのしがらみもなく雑談ができるというのは良いものだ。土方さん一派に身を置いていた頃の尾形上等兵の情報をいくらか教えてもらえたのも思わぬ収穫である。そんなこともあって私はすっかり夏太郎くんへの警戒心を解いていた。


「はいっ」

 姿勢を正したが次の言葉が飛んでこない。尾形上等兵は私の顔を見ている。が、目は合っていないように思う。何を考えているんだろう?そんなのもの予想しても無駄なことはわかっていた。尾形上等兵とは頭の作りからして違うのだから。私には彼が何を思って夏太郎くんの話題を出したのかも、どうして今名前を呼ばれたのかもさっぱり見当がつかない。お前は狙撃手に向いていない、と尾形上等兵に言われたことがあった。もし私にその才能が備わっていればもっとこの人のことを理解できただろうか。病院を抜け出すときも私を誘ってくれただろうか。
 尾形上等兵が私を解放する気配がないので、必然的に私も直立不動で成り行きを見守る。こんなに長い間見つめ合うのは初めてかもしれない。……まあ、目と目が合っているわけではないので見つめ合うという表現が正しいのかは疑問だが。それでもこういった場合、大抵尾形上等兵が鬱陶しそうに私を追い払うのがお決まりの流れである。今日はそれがないな、と思っていたらすっと伸びてきた尾形上等兵の右手が私のこめかみを撫でた。えっ、なにこれ、どういう状況?嬉しさと戸惑いが交じり合って触れられている部分がムズムズする。

「あいつは見込みがあると土方のじいさんが言っていた」
「へ、へえ……すごいですね」
「どう思ってる?」
「……は?」
「奥山夏太郎のことだ」
「どうって……鶴見中尉のところにはいないおもしろい感じの人ですよね。今時の若者って感じで」

 一体どんな反応を期待していたんだ……?右手はそのままに私を見下ろす尾形上等兵は思っていた返答と違ったのか、少し眉を顰めた。


「はい」
「お前が俺に執着するのはただの同情心じゃないのか?」
「……ち、違います」
「そうか?お前が妙なことを言いだしたのはあのあとだろ」
「あのあと、って……」
「俺が師団で噂されているのを知ってからだ。違うか?一等卒」

 違うとは言えなかった。たしかにあれがきっかけだったのは間違いない。でも。

「……きっかけがそうでも、尾形上等兵殿のことが好きなのは本当の気持ちです」
「そう思い込みたいだけじゃないのか?」
「私は、貴方に認められるくらい強くなりたいのです。隣で戦いたいんです。……そうしたら…………尾形上等兵殿は私を見てくれますか」

 あの日頭の中でまとまらなかった答えがようやく見つかった気がした。私はこの人の隣に居たい。いつか例えられたコバエのように相手の周りを飛び回る鬱陶しいものから、必要とされる存在になりたい。

「見てるだろ。今俺の目の前にいるのも、触っているのもお前だ。おかしなこと言うんじゃねえ」

 鼻で笑った尾形上等兵は私から離れ、闇に消えていった。今度は追いかけなかった。