朱仄へ16

 網走監獄は三方を山に囲まれ、一方は網走川に面している要塞のような建物だった。対岸から眺めるだけでもその壁の大きさ、重厚さ、陰鬱さに圧倒される。

「ここで捕まったら、私たちもあそこにぶち込まれるんですかね?」
「その前に軍法会議にでもかけられるんじゃないか」
「え……」
「……なんだその反応は。まさか知らなかったわけじゃないだろうな」
「…………し、知ってました……よ」

 半分嘘である。うすぼんやりとそんなことを習った記憶があったが、今の今まで忘れていた。命令違反、規律違反はもちろんのこと、無断で部隊を離れるたりすることも立派な罪だった。堂々と「脱走兵」となった私と尾形上等兵はその罪の重さはともかく、もし軍に戻ればなにかしらの刑罰が科されるに違いない。谷垣は……ちょっと特殊すぎて私にはわからない。大怪我をして療養していましたとでも言い訳すればぎりぎりセーフだろうか。
 網走監獄潜入作戦に於いての私の役割は、まあ当然といえば当然かもしれないが、山側のどこかに潜んでの援護射撃である。尾形上等兵とおそろいだ。そのちょうどいい待機場所を見つけるべく、私は尾形上等兵と道なき道を進んでいた。ちなみに双眼鏡は土方さんが買ってくれた。まるでおじいちゃんである。正直杉元さんたちと難しい話をしている時以外、特にアシリパさんやチカパシくんと接している時の彼は至って普通の、穏やかなおじいちゃんだった。その中に自分が含まれているのは喜んで良いのかちょっと複雑だが。私はそのおニューの双眼鏡で網走監獄の内部を観察し、事前に見取り図で確認してあった見張り台の位置や通路の様子を実際に確認する。敷地外にも見張り小屋がいくつもあるので、そちらも注意しながら行動しなければならない。

「明日からは穴掘りかあ~」

 アイヌの鮭漁を装って、網走監獄の内部に通じるトンネルを掘るという計画の立案者は白石さんだった。彼は女遊びが激しいだけのちゃらんぽらん脱獄囚だと思っていたけど、どうやら相当頭が切れるらしい。まあ、今まで数々の刑務所から様々な方法で脱獄を繰り返してきたということを考えれば当たり前なのかもしれない。

「そういえばキロランケさんって第七師団だったんですってね。知ってました?」
「……いいや」
「あの体格だから元工兵って聞いて妙に納得しちゃいましたよ、私」

 相変わらず尾形上等兵は全く会話に乗ってこない。私などお構いなしに一人双眼鏡を覗き続けていた。私は私で、どうでもいいことでもしゃべり続けていないとあの話題が蒸し返されてしまう気がして怖かった。また、作戦が成功するか否かの不安を紛らわしたいというのもある。悪いことをしているみたいで……というか普通に犯罪なのだけど、どうにもそわそわして仕方なかった。

「……成功しますかね」
「さあな」
「さあなって……もし失敗したら尾形上等兵殿だって困るんじゃないですか?」

 ……まただんまりである。尾形上等兵の目的達成の道のりに、今回の作戦成功は含まれていないのだろうか。彼の本当の目的がどうでもいいというのは紛れもなく本音だけど、だからと言って気にならないわけじゃなかった。矛盾しているだろうか?
 最終的に私と尾形上等兵の配置が決まったところで近くのアイヌの村へ戻る。もちろんここもアシリパさんの親戚がいる村だ。杉元一味に土方一味、そしてそのどちらでもない私や谷垣たち……気付けば10人以上の大所帯になっていた。しかしその誰もが味方であり敵でもある。なんとも歪なチームだ。思えば第七師団も同じようなものだった。北鎮部隊とはいえそれを構成するのは全国各地からの寄せ集めである。第七師団と大きく違うのは全員をまとめる隊長といえる存在がいないことだった。そしてそのそれぞれが同じ目的を持っていながら最終地点はまったく別の方向にあるのだ。だから余計に危うさを感じるのかもしれない。そんな分析をしながら一同のいる空間を眺めていると、近くにいた白石さんと目が合ったのでなんとなく話しかける。

「私、トンネル掘るのって初めてなんです」
「……え?ちゃんも参加するの?」

 白石さんがさも意外そうな顔をした。

「だめでしたか?」
「だって、大変だよ~?力仕事だし」
「そうですけど……待ってるのは性に合わなくて」
「ほんとに大丈夫?」
「まあ、手伝ってくれるのはありがたいけど……」
「がんばります!」

 不安そうにする杉元さんへ向かって拳を握りしめたら苦笑された。なんでだ。



 翌日、宣言通り私は鮭漁兼穴掘り隊に同行した。ちなみに尾形上等兵はいない。

「あんた尾形さんとどういう関係なの?」

 平均年齢高めの土方さん一派の中で恐らく最年少であろう長髪の男が興味津々な様子で尋ねてきた。ええと……たしか夏太郎さん……だったかな。自慢じゃないが人の顔と名前を覚えるのが苦手な私にはいまいち自信がなかった。一応あとで土方さんに聞いてみよう。

「どうって……ただの上司と部下ですけど。あと師弟関係……かなあ。」
「なーんだ、てっきりこれかと思ったのに」

 言いながら夏太郎さんは小指を立てる。そうだったらどんなにいいことか、と私は嘆息した。

「私としてはぜひともそうなりたいところなんですけどね」
「ふーん。ま、あの人女に興味なさそうだもんな。女っていうより人間に、って感じだけど」
「人に……」
「……いやまあ、なんとなくだけどさ」

 ……言われてみればそうかもしれない。第三者目線での感想に私は妙に納得してしまう。今まで自分のことしか考えていなかったが改めて尾形上等兵の言動を振り返るとなにか大きな目的のために動いているような気がした。……というのは飛躍しすぎかもしれないが。尾形上等兵の目的とやらを知らない今の私にはそのすべてが怪しく見えるのだった。

「ていうか、師弟関係って?なんの?」

 この夏太郎さんという青年は私と年が一番近いらしい。だからこんなにずけずけと聞いてくるのだろうか。27聯隊にはいなかったタイプに私は珍しく苦笑いしながら、それとなく説明する。やっぱり彼も軍隊に女がいることを始めて知ったようで、驚きの声をあげた。「人は見かけによらないんだな」という言葉は褒められているのかなんなのか……。そうやって夏太郎さんたちと時々雑談を交えつつ、初日の穴掘り作業を終えた。この作業で一番大変なことは、穴掘りそのものよりも土を処分することだろう。表では鮭漁に勤しむアイヌに扮したキロランケさんと谷垣、土方さんが鮭と一緒に掘った土を少しずつ運んでいる。一度に運び出せる量は限られているし、少しでも不審な動きを見せればすべてが台無しになってしまうため、最重要任務を任された三人といえる。ていうか、土方さん……変装しているとはいえ自分が収監されてた場所に堂々と乗りこむなんてやっぱり度胸がすごい。さすが新撰組の生き残り……なのか。びびりの私には到底真似できそうにない。

「せっかく尾形を追いかけてきたのに、どうしてあいつについていかないの?」

 杉元さんが手を動かしながら私に尋ねた。

「だって、尾形上等兵ってば私のこと無視するんですよ!酷くないですか?」
「……いつもあんな感じだと思うけど」
「まあそれは半分冗談なんですけど、なんというか……久々の下界なんでこの際思う存分満喫しておこうかと思いまして」
「下界……」
「ほら、兵営ってピリピリしてるし、怖い先輩の目もあるしでのびのびできないじゃないですか」
「尾形は怖い先輩じゃないんだ?」
「尾形上等兵は恐くないですよ。あ、最初はちょっと怖かったけど、あれで案外部下思いだし」

 そこまで話してから私はしまった、と内心後悔する。尾形上等兵と不仲である杉元さんにこんな話をして気を悪くしないだろうか。つい谷垣に喋るみたいにぺらぺらとまくしたててしまった。私に背を向けていた杉元さんの表情は伺えなかったので実際のところはわからないが、とりあえず私はさりげなく今日の晩御飯の話題に切り替えた。近くのコタンでアシリパさんたちが食事を用意して待っていてくれているはずだ。それを想像すると俄然やる気がでるってもんだ。食事は大事。そんなこんなで数日後、この単調な作業に変化が現れた。とうとう直上掘りに移行したのだ。

「頭を出したら看守たちの酒盛りのど真ん中じゃしゃれにならん」
「土方歳三が指定した距離を掘ったんだ。信じるしかねぇ」

 私たちは掘った先になにがあるのか知らされていない。すべて土方さんの指定だった。私はあの海岸での一件を思い出す。結局なにも解決しないままここまで来てしまったから、土方さんの疑いは晴れていない。のみならず、キロランケさんやインカラマッさんだって未だ疑惑の渦中にある。それでも今は土方さんを信じるしかないとはなんとももどかしいことだった。ほぼ部外者の私ですらそんな心理状態なのだから、がっつりと当事者である杉元さんやアシリパさんたちこそ複雑な心境だろう。
 頭上を掘る杉元さんを下から見守っていると、やがて小さな穴が開いてそこから光が漏れた。とうとうぶち抜いたらしい。穴を広げて、杉元さんがおそるおそる内部の様子を伺う。誰かの話声が聞こえた。まさか、看守にばれた?続いてキロランケさんも穴から顔を出した。一体なにを話しているのだろう?気になって仕方ない私は緊張でどきどきしながらその中に無理やり割り込んだ。穴の先にあったのは、看守の宿舎だった。え?これ本当に計画通りなの?と困惑する私たちを見下ろしていた看守のおじさんがおちょこをくいっとやった。