朱仄へ15

 私は父が大好きだった。母も、兄も大好きだった。けれどいつの間にかみんないなくなって、私だけがこの世に残されてしまった。死神に憑りつかれているのだと思う。それは幽霊みたいに曖昧で妖怪みたいに不確かものだ。死神は私をこの世から孤立させるように、私の大切な人たちをみんな連れて行ってしまった。世界はなんと理不尽なのだろう。全てを奪われた私みたいな人間がいる一方で、愛する人たちに囲まれて平穏な日々を送る幸せな人間もいる。けれどどうしてか、そんな世界を憎むような気にはならなかった。兄を亡くした時点で、私の時間が止まってしまったからだ。私は陸軍を無事満期で除隊したらみんなのところへ行くつもりだった。流石の死神も天国まではついてこられないだろう。これで私の勝ちだ。そんな私の安楽死計画は尾形上等兵に出会ったことで崩れ去った。私の死神はまだ後ろにくっついているだろか。それだけが不安だったけれど、尾形上等兵なら死神さえ撃ち殺してしまうかも、なんて突拍子もないことを考える。そんなに失うのが怖いなら、好きになんかならなければよかったのにと思ってももう手遅れだった。年に1回見られるか見られないかくらいの貴重な笑顔は毎日のように思い出すし、銃を撃つときの背筋が凍るような瞳ですら愛しいと思う。手遅れだ、と思ってしまうほど私には彼が必要だった。酸素みたいなものだ。だから私はどうか尾形上等兵だけは犠牲になりませんようにと、信じてもいない神に祈り続ける。



 ぼーっとしていた私は「体の具合でも悪いのか?」と谷垣に話しかけられ、思わず「は?」と雑に返す。彼は周囲を気にしすぎるきらいがある、と思う。空気が読めるというのは良いことなのだけれど気にしすぎはよくない、とあまり空気を読む方ではない私は人知れずこの男の胃を心配してみる。

「写真屋に寄ったときから、様子がおかしい気がするんだが……」
「……そんなことないよ」
「そうか……」
「どこが変?」
「尾形上等兵に近づこうとしないだろう」
「え……判断基準そこなの?」

 中らずと雖も遠からずだな、と私は冷や汗をかいた。体の調子ではなく心の調子が悪いというやつかもしれない。あれから尾形上等兵と何を話したら良いのかわからなくなってしまい、自然と近寄ることも少なくなった。今までどんな会話をしていたっけ?ごちゃごちゃと考えのまとまらない頭は未だに答えを出してくれない。尾形上等兵の方はもともと自分から私に近寄ることはほぼ皆無なので先日の一件は本当に飛び上がるほど驚いたが、あれ以来私たちは会話をしていなかった。まあ会話と言ってもこちらが一方的にどうでもいいことをべらべらと喋り倒して、時々尾形上等兵が思い出したように雑な相槌を入れてくれるだけなので果たして「会話」とよんでいいものなのかという疑問はあるが、そのどうでもいいことでさえ浮かばなくなってしまったのは由々しき事態といえるかもしれない。でも視線だけは相変わらず無意識に尾形上等兵を探しているせいで、時々目が合ってどきりとしていた。視線では姿を追うくせに近づかないというのは尾形上等兵のみならず谷垣たちの目にもきっと奇妙に映っているに違いない。

「私こう見えても尾形上等兵とは谷垣より付き合い長いんだよ」
「そうなのか」
「そうなの。だから、谷垣が知らないだけでそんな時もあるんだって」
「ならいいんだが……」

 谷垣は複雑な表情をしていたけれど一応納得してくれたらしい。私から離れていく谷垣をなんとなく目で追うと、当然のようにチカパシくんとインカラマッさんのいるところへ戻っていった。谷垣は私にないものを見つけたらしい。彼が第七師団にいたときと様子が違うことには再会してすぐ気づいた。出会った当初はぎらぎらと危うく光っていた瞳はどこかの段階で影を宿した。それがふと行方がわからなくなって再会したときには人が変わったように穏やかになっていたのだから、驚かない方が不思議だろう。きっとインカラマッさんやチカパシくんが谷垣に影響を及ぼした人物なのだろうことは私にも予想できた。いや、あの二人だけではない。谷垣が受け継いだ村田銃の持ち主や、アシリパさん、そしてその家族たち……出会った誰もが複雑に混ざり合った結果なのだと思う。
 宿の窓辺で頬杖をついて外を観察してみても、そこにお目当ての人物はいない。尾形上等兵はどこだろう。会いたい。それと同じくらい、会いたくないとも思っていた。会いたくないくせに頭の中は彼のことでいっぱいだ。なんと矛盾していることか。頭の中が整理できなくなり、いつの間にか目頭が熱くなった。感情の制御ができないなんてまるで子供だ。こんな未熟な私を見たら尾形上等兵は呆れてねちねちと説教してくるだろう。……また尾形上等兵のことを考えてしまった、いかんいかん。世界の中心がそうそう変わるはずもなく、私の脳みそは当たり前のように彼を思い浮かべている。

「また泣いているのか」
「……もしかして私って泣き虫と思われてます?」
「違うのか?」
「違います。尾形上等兵殿の間が悪すぎるだけです」

 尾形上等兵が急に現れて泣きそうなところを見られてしまったので、私は恥ずかしいのと気まずいのを誤魔化すため顔をごしごしと乱暴に擦って涙を拭いた。少し目頭が熱くなっただけなので私的には未遂である。こういうときに限って自分から寄ってくるもんだから、嬉しいのかなんなのか自分でもよくわからない。隣に腰を下ろした尾形上等兵は私と同じように窓の外を少し眺めてからふいに顔をこちらへ向けた。

「お前が思っていることを当ててやろうか」
「………………結構です」

 少し迷ってからそう答えると、尾形上等兵が苦笑いして肩を竦める。

「この間から随分な態度じゃないか?」
「お、尾形上等兵には言われたくないです!自分だって私の扱い雑じゃないですか」
「そりゃお前は俺の部下だからな」
「その理屈はちょっとわからないですけど……ていうか、もう部下じゃないし……」
「なら降りろよ」
「え……」
「なにをうじうじしてるのか知らんが、そんな状態じゃ真っ先に死ぬぞ」
「……でも帰るところもないし」

 知ってるくせに、と忌々しく思いながら俯いて言うと、尾形上等兵も黙ってしまった。これは私個人の事情なので、知ったこっちゃないと言われてしまえばそれまでなのだけど、彼は突き放すこともなくただ私の名前を呼んだ。

「ここを出たら、網走監獄だ」
「はい」
「……本当にわかってんのか?」
「そ、そのつもりですけど……」
「お前はいつもいつも、生き方が刹那的すぎるんだよ」
「その場の勢いって大事ですよね」
「……聞いておくなら今のうちだぜ」
「じゃあ、もし生き残ったら、教えてくれますか」
「……お前にはかなわんな」

 それは死んだ兄によく言われたのと同じ台詞で、私の脳裏に兄の顔が過ぎった。同じ台詞を聞いて尾形上等兵と兄の姿が重なった……わけではない。だって兄は尾形上等兵みたいに意地悪じゃない。口も達者じゃないし厭味ったらしい喋り方なんてできない人だった。

「指切りしてください!」
「断る」
「ええー……」

 ずいとだした小指は華麗に無視されてしまったが、めげずにああ、照れてるんですねとニヤニヤ笑いながら尾形上等兵の右手を無理やり取って自分の小指と絡めた。

「ゆーびきーりげーんまーん」
「……」
「嘘付いたら…………」
「……」
「……」
「……おい」

 普通にはりせんぼんじゃおもしろくないし。小指を繋いだままぷらぷらと手を振って考える。

「嘘付いたら…………えーと」
「さっさと終わらせろ」
「嘘付いたら尾形上等兵殿のこと百之助さんて呼んでやーる!」
「……」
「私のことって呼ばせてやーーーるっ」
「……呼ぶわけねえだろ」
「約束破らなければいいだけですよ?簡単じゃないですか」

 なかなか小指を離さない私に「まだなんかあるのか」とめんどくさそうに尋ねる尾形上等兵だが自分から振り切ろうとはしないのは少し意外だった。それは最後に私のわがままを聞いてやるかという優しさにも見えて、これから先起こることを予見しているみたいでもある。私が尾形上等兵に聞きたかったことは、父のこともそうだけど……もうひとつ。

 尾形上等兵はどこへ行ってしまうのだろう。

 尾形上等兵は、この金塊争奪戦が終わった後の未来を見据えているだろうか。もし彼の中に未来があるなら今度こそ思い残すことはなくなる。私はそれが知りたかった。生き残ったらなどと先延ばしにするのは、やらなきゃいけないけど今はちょっとやる気が出ないからと言って後回しにした仕事みたいなもので若干の後悔もあったが大事の前に聞くには心労的な意味で負担が大きい気がすると考えた結果のことだ。これが終わったら、ちゃんと尾形上等兵から話を聞いて、そして、私にとって聞かなければよかったと思うようなことだったとしても、どんなことでも受け止めよう。そうやって覚悟するための時間もほしかった。よし、と呟いたあとで私は尾形上等兵の手を両手で握る。

「尾形上等兵殿」
「…………なんだよ」
「私が死ぬ前に死んだら許さないですからね!」
「お前は殺しても死ななそうだけどな」
「尾形上等兵こそ、杉元さんと同じくらい不死身じゃないですか」
「あいつと一緒にすんな」

 尾形上等兵が手を振りほどく素振りも見せないので、私はそのままの状態でにこりと笑った。なあんだ、普通にいつも通り話せるじゃん。遠い昔に同じようなことを経験したような気がしたので記憶の引き出しを探ってみたけど、結局それは見つからなかった。どうやら私は記憶力が絶望的に悪いらしい。