朱仄へ8

 気が狂いそうになるほど長い世界の歴史の中で女性兵士は確かに存在した。
 というのは兄が死んだあとにやって来た偉い軍人さんの受け売りであるが我が大日本帝国陸軍においては未だ実験段階の域らしいので自分が陸軍初でないにしても先駆け的存在であることは確かだろう。実際自分もそのような話は聞いたことがなかったし訓練で日に日に疲労の溜まっていく兄さまを見ているとあれが女に務まるとは思えなかった。そりゃ小さい頃は兵隊になってばっさばっさと敵をなぎ倒していくような強い女になりたいなあなんて思っていたけれど兵士になるか否かの選択を迫られた時には屯田兵村で現実を知った後だったし天涯孤独の身となった私は最早生きることを諦めていたのだ。その自分が日露戦争に出征してまさか生き残って脱走兵になるなんて、誰が想像できただろうか。振り返ってみれば陸軍に入隊して数年のうちに失ったものもあれば逆に得たものもある。どちらが多いか、なんて単純には言えないけれどきっとどちらも大切なことなのだろうと少しだけ自分の人生を俯瞰できるようになったことは大きな変化だったように思う。陽気なシライシさんに「陸軍に女の子一人なんて危なくないの?」と興味津々な様子で質問された私は危ないっていうか環境が整っていないというのが大きいかなあとそれほど昔ではない当時の生活を思い返した。

「例えば?」
「風呂場が一緒」
「うそっ!?」

 目玉をひん剥いて驚く白石さんに「ちなみに厠も一緒でした」と補足したら歩いていた足が止まってしまったので目の前で手をひらひらさせてみる。出会って数時間だけどその短い間に彼の口から出たのは「ご当地の遊郭に行ってみたい」とか所謂下の話題が主だったので恐らく私の置かれていた環境は白石さんにとって天国みたいなものなのかもしれない。私が彼の好みに合致しているかどうかはともかく。

「シライシさーん」
「お前ら、何をやってるんだ?」
「白石さんが放心状態であります、尾形上等兵殿」
「放っておけ」

 そんな殺生な……と思ったが多分今までもこんな雑な扱いを受けていただろうことは容易に想像がつく。だって白石さんてなんかそんな感じだもん。「そんな感じ」としか言えない語彙力の無さはこの際置いておくとしてまあ要するに親しみやすいってことだろうか。口を半開きにして立ち尽くす白石さんをチラチラ振り返りながら尾形上等兵の背中を追いかけていたら正気に戻ったのか全力ダッシュで追いかけてきた。なんか顔が怖いけど。血走った目で追いかけられるのはたとえそれが知り合いだとしてもちょっとした恐怖である。

「ちょっと尾形ちゃん!まさかとは思うけどちゃんのは、は、はだか見たことあるの……?」
「……無いわけではない」
「谷垣もありますよ」
「うわああああ!」

 膝をついて天を仰ぐ白石さんを再び置き去りにして先に進む。驚くのも無理はないかもしれないけど私にとってはもうそれが日常だったというかそんなもん気にしてたら生活できなかったので嫌でも慣れるしかなかった。幸い第七師団は紳士的な人ばかりだったのかそういった目で見られたことはない、と思う。いや私に魅力がないとかじゃなくて。妙齢の女の素っ裸を見ても目の色を変えなかった人物の一人である尾形上等兵をちらりと見上げ、そういえば私もあんまりじろじろは見なかったなあと思い返す。兄も居たし当たり前といえば当たり前だけど……やっぱり見ておけばよかった……。恐らく人生最大のチャンスだっただろう当時を思い出し頭を抱えてその場にしゃがみこむ。嗚呼、どうしてあの時の私は尾形上等兵の鍛え上げられた裸体を目に焼き付けておこうと思い至らなかったのだろう。

、白石の真似してないでさっさと歩け。置いていくぞ」
「……別に真似してるわけじゃないですけどね……」

 しょんぼりしながら顔を上げると尾形上等兵がじっとこちらを見ていた。何考えてるのか全然わからないけど、どうせなんとも思っていなかったんだろうなあ。一体何をすればこの朴念仁を振り向かせることができるのか今でもさっぱりわからない。というか戦争から帰ってきて益々わからなくなってしまった。以前はもっとこう、無表情なりに言いたいことが薄っすら読み取れていたような気がするのだけど月島軍曹と同じで何かはわからないけど何かが変わったように思うのだ。やっぱりそれが何なのかは見当もつかないけどこの金塊探しに関わることなのではないかと私は推測している。聞いたら答えてくれるだろうか?もしかしたら気まぐれで教えてくれるかもしれない。

「あと5秒以内に立たないと本当に置いていく」
「ああああ立ちます歩きますだから置いてかないでくださいッ!」

 また置いていかれるのはごめんだ。私ががばっと勢いよく立ち上がるのを見届けた後、尾形上等兵は何も言わず前に向き直って足を進めて行った。まあアシリパさんの親戚の居るコタンに戻れば大丈夫なのだけど目を離すとふらりといなくなりそうで少し怖かったのだ。一歩間違えば子ども扱いみたいな酷い台詞だけど実際そうだったのだから仕方がない。それも2回も。2度あることは3度ある……なんて思いたくもないけど。もう目を離さないぞとひっそり決意した矢先、私は迷子になったことに気付いて再びしゃがみこむのだった。さっきまで前を歩いていたはずの尾形上等兵がいない。後ろで放心していた白石さんも。こんな見晴らしの良い場所で迷子になるなんてある意味私って天才なのかもと涙目になりつつ乾いた笑いをもらす。とりあえず来た道を引き返してみよう。真っ直ぐ来たから真っ直ぐ戻ればコタンに着くはずだ。そう思って回れ右しようとした時、前方の空が黒く染まっていることに気付いた。雷雲だろうか。いやだな~落ちたら怖いな~なんて顔を顰めているうちにその黒い雲がすごい速さでこちらにせまってくる。あれ、雲じゃない!虫だ!と気付いたときには黒い塊はすぐそこまで迫っていて私は元きた(だろう)道を慌てて引き返した。何を隠そう虫が大の苦手な私は1匹でも無理なのにあんな星の数ほどの大群に捕まった日には卒倒してしまう自信しかないので追いつかれたら死ぬくらいの気持ちで微妙に足場の悪い海岸を駆け抜けると途中で身を隠せそうな穴場を見つけ、滑りこむようにその穴へ逃げ込む。ガサガサガサガサと気味の悪い音を立てながら虫の大群が通り過ぎていくのを穴の中で膝を抱えてやり過ごした。虫を怖がる私に向かって「虫には虫の役割があるんだよ」と諭した父を思い出す。小さい私は「どんな役割?」と聞き返した気がするがそのあと父は何と言っただろうか。父の事を思い出そうとする度、邪魔するみたいに霞がかかり肝心なことを思い出せなくてイライラしてしまうのだ。天から何かしらの役割を与えられた虫たちがガサガサガサガサガサと私の思考に入ってくる。耳を塞いでもその音は消えなかった。虫にも役割があるというなら、私は一体どんな役割を担っているのだろう。わからない、わからない、わからない、なにも、わからない―――













 耳を塞いでも煩いくらいだった虫の羽音がいつの間にか聞こえなくなっていることに気付いて、私は固く閉ざしていた目を開けた。

「あれ……なんか朝日みたいなのが見える」

 さっきまで昼間だったはずでは?大きな独り言を言いながら穴からでると眩しい太陽に目が眩む。とにかく虫はいなくなったようなので皆と合流しよう。もうコタンに戻っているだろうか。自分も戻りたいところだが無我夢中で走っていたせいもありどっちに行けばそのコタンに着くのかもわからなくなってしまったのでとりあえず海岸沿いに出ると誰かがたき火をしていた。

「アシリパさん?」
。無事だったのか」
「アシリパさんも……無事でよかったね。他の皆は?」
「……わからない」
「こんなところで何してたんですか?」
「……」

 俯いたまま答えないアシリパさんに首を傾げるが別に深い意味があって聞いたわけではないので言いたくないならそれでいいかとすぐに諦めて周りを見渡すと谷垣とインカラマッさんに続いて杉元さんたちの集団も続々と集結した。なあんだ、そんなに遠くまで行ったわけじゃなかったのか。集団の中に尾形上等兵の姿を確認し、私は安堵のため息を吐く。いつの間にか集団に加わっていた大男はキロランケさんだろうか。話には聞いていたが谷垣より大きいじゃないか。……本当にいつ合流したんだろ。

「キロランケニシパが私の父を殺したのか?」
「俺が?なんだよいきなり……」

 事態が飲み込めていないのは私だけではなかったらしく、白石さんも「え?」と驚きの声を上げる。頭の上にたくさんの疑問符を浮かべていると今度はインカラマッさんが証拠として馬券を提示した。なんて手際が良いのだろう。できる女っぷりを堂々と見せつけられ、私はただただ感心するしかなかった。その採取したキロランケさんの指紋がアシリパさんのお父さんが殺されたところで見つかった指紋と一致しているらしい。私の知らない単語が次々繰り出され頭の上にたくさんの疑問符を浮かべていると尾形上等兵が唐突に話をぶった切った。

「この女……鶴見中尉と通じてるぞ」

 尾形上等兵が何の躊躇いも見せずインカラマッさんに銃口を突きつけると、谷垣が彼女を庇うように前に出た。なんだこの修羅場は。私が釧路で彼らに合流する間に何かあったのは明白だ。たぶん話の流れからしてアシリパさんのお父さんは金塊の謎に関わっていて、でもキロランケさんに殺されている?ではキロランケさんの言った「監獄ののっぺら坊」というのは何の事だろうか。誰か私に解説してくれ。できれば3行くらいで。そんな思いで一同を見渡すが誰一人目を合わせてはくれず手を挙げて質問できるような空気でもなかったので黙って成り行きを見守ることにした。私の知らない単語がいくつも出てきてうまく整理できないが、どれもこれも不穏に思えて仕方がない。白石さんが動揺しながら「誰が嘘をついてるんだ?」と言う。私にはどちらも嘘をついていないように見えるし、どちらも嘘をついているようにも見える。……つまり全然わからない。この場にいても真相はわからないと、一旦村へ戻ることになったので一番後ろを歩く尾形上等兵にさきほどの話でわからなかったことを質問攻めしたら恐らく大分ぼかされたような気もしないではないが以外にもすんなり答えてくれて私は漸く話に追いつくことができたのだった。