朱仄へ5

 最終日、少しだけ早起きして朝から歩き回ったけれど、日が高く昇る頃になっても姉畑さんは見つけられない。杉元さんとアシリパさんにも焦りの色が見え始める。姉畑さんは特徴的な髪型をしていた。普段尾形上等兵のことで頭がいっぱいな私だけど、このときばかりは仕方なく姉畑さんの顔を一生懸命思い浮かべて早く見つかるように祈りながら探す。

「姉畑がヒグマに銃を使ってくれたら、音でおおよその位置がつかめるかも知れんが……。ひとまずコタンに戻って谷垣を逃がして、時間稼ぎをするしか無いぞ」
「谷垣は尾形が助けてくれる」
「あんなの一番信じちゃダメな奴だよ」
「尾形上等兵は意外と良い人ですよ?きっと嫌味を言いながら恩着せがましく助けてくれる筈です」
「それ本当に擁護してる?」

 そのとき、近くの繁みがガサガサと音を立てた。杉元さんが素早く銃を構える。

「まただ……。ヒグマかも……ずっと俺たちをつけてる奴だ」
「大丈夫です、杉元さん!ヒグマなら銃で斃せます!」

 アシリパさんの背後からまた草の揺れる音が聞こえ、振り向くと大きな犬がしっぽを振っていた。

「あれ?この犬、どこかで……」
「リュウだ!」
「リュウ!?ほんとだッ!リュウだ!」
「知ってる犬ですか?」
「二瓶鉄造の猟犬だ。なんでこんなところに?」
「二瓶鉄造の?」

 小樽にいた二瓶鉄造の忠犬がなぜこんな遠く離れた釧路にいるのだろう。どうやら谷垣に着いてきたわけでもないらしく、谷垣が受け継いだ二瓶鉄造の銃をひとりで追いかけてきたのではと推測した杉元さんがリュウに手を差し出したが思いっきり噛まれていてリュウをぶっ叩いた。

「…………あっち行けよ!!」
「いや……待て。姉畑支遁が二瓶鉄造の銃を持っているなら、リュウが姉畑を見つけてくれるはずだ!!」
「なるほど!」

 土壇場で心強い仲間が加わった。犬の嗅覚なら探し出せるかもしれない。残された時間はわずかだが、一筋の希望が見えた気がした。アシリパさんたちが最初に若いオス鹿の死骸を見つけた場所まで戻り、その場に残された姉畑さんの匂いをリュウに覚えさせる。雨が降ってしまったからにおいが残っているのかはわからない。だけどもうこれに賭けるしかないのだ。

「……アシリパさん、もし俺が谷垣みたいな状況になったら、尾形にだけは託さないでくれよ?」
「杉元になにかあったら、私が必ず助ける」
「ほんとにぃ?頼むぜアシリパさん」
「信じろ杉元。何があろうと私は……」
「あっ!!」
「おお?リュウが何かに反応したようだぜ!!」

 この二人は一体どんな関係なのだろう。想像もつかないけどお互いを信頼しているようで、羨ましく思う。それにしても杉元さんは尾形上等兵のことを相当嫌っているみたいだ。慕っている私からしたら少々複雑でもあるが、誰かに好かれたり嫌われたりして一喜一憂するような人じゃないだろうし本人は何とも思ってなさそうだ。ていうか尾形上等兵のこと好きって言ってる人みたことないな……自分以外で。

「見てみろ杉元、!リュウがいいもの見つけたぞッ!」
「嬉しそうだね。ウンコかい?」
「なんで?」
「ウンコじゃないぞッ!見てみろ!」
「ウンコじゃない?どうしたの?」
「ヒグマのウンコだ!!」
「ウンコじゃん!ウンコじゃん!」
「ウンコだ杉元…………ウンコだ」
「……」

 この二人、息ぴったりすぎだろ。アシリパさんはそのウンコを観察すると「おそらく今日の朝のものだ!」と推測を立てる。すごい、見ただけでわかるんだ。しかもその上で人間が暴れまわった形跡があるという。うわあ。

「姉畑支遁しかいねえだろそんなの!!犯人は近いぞ、リュウ!!」
「姉畑はヒグマのウンコを体に塗って近づく気だ。飲まず食わずで冬ごもりしていた春のヒグマより、たくさん食べて体力を取り戻した夏のヒグマはとても強い。馬の首も一撃でへし折る」
「へえ……アシリパさんて物知りですね」
「俺たちはそんなヒグマから姉畑支遁を守らなきゃいけないってことか。なんという無謀なバカ野郎だ!!ヒグマとなんてヤレるわけがない!!絶対に不可能だッ」

 果たして姉畑さんはそれを知っていてなお、ヒグマに近づくつもりなのだろうか。動植物を調査する学者さんだと言っていたことからするとこの時期のヒグマについても知っていた可能性はあるが……一体彼の中の何がそこまでさせるのだろう。地面の匂いを嗅ぎながら少しずつ歩いていたリュウが、突然何かに反応して駆けだした。その先に居たのはヒグマに襲われている姉畑さんだ。低い唸り声を上げたリュウは遂に私たちの探していた目的の人物を捉え銃に噛みついた。

「リュウ離れろ、矢に当たるッ!」

 ヒグマとリュウに襲われた姉畑さんが銃を暴発させてしまい、アシリパさんの頭に巻いた布を掠める。危なかった。と思った瞬間アシリパさんが何かに足を取られ、体勢を崩す。支えようとした私もぶよぶよと安定しない足元のせいでぐらりと体が傾いた。手を差し伸べた杉元さんも一緒に、三人仲良く池に落ちてしまった。やばい、銃に水が入ってしまう……。

「ぶはッ!深いぞこの池!!」
「ヤチマナコだ!」

 杉元さんがいち早く岸に上がる。自分も続きたいところだが、やわらかい土と水草のせいでなかなか這い上がることができない。

「何であんな馬鹿をヒグマから必死で守らなきゃいけないんだッ!」
「杉元さん!だめです!」

 杉元さんが引き金を引いた銃はバガン、と嫌な音を発して弾倉と水を吐き出した。あーあ、壊れちゃった……。できれば自分の銃を貸してあげたいところだが生憎私の銃も完全に池に浸っていてこのままでは同じ結末になるのは目に見えていた。銃が壊れて焦っている杉元さんへ、ヒグマが猛スピードで迫る。良く見るとヒグマのお腹に人間……姉畑さんがしがみついている。なんであの人、服脱いでるんだ?しかも下半身だけ。意味がわからない。「ホパラタだッ!!」と叫んだ杉元さんは着物の裾を持って両手を広げた。更に意味がわからない。絶体絶命な状況の筈なのに私の頭には疑問符がたくさん浮かんでいた。しかしどうすればこの危機から脱することができるのか。銃は使えず、アシリパさんの弓矢にも毒を付けてあったらしいが、池に落ちたことで溶けてしまったという。

「やっぱり、毒なしでは厳しいですか?」
「……無理だ、多分…………ぎいやッ!蛇だぁッ!」
「うわっ!おっきい!!」
「ういいッ!でも……これを投げれば、ヒグマは蛇が大嫌いだから……」

 どうやらアシリパさんも蛇が嫌いらしい。杉元さんを助けなきゃという思いと蛇への恐怖心が入り交じり、奇声をあげながら百面相していた。さっきまでの可愛らしい女の子は一体何処へ……とか思ってる場合じゃない。正直自分も蛇は苦手の部類だが、そこまで嫌いなら助太刀しようと泳いで近づくと、覚悟を決めたのかアシリパさんは「ウコチャヌプコロ!!」と叫びながら蛇を掴んでヒグマの方へ放り投げた。蛇がヒグマの足元に落ちると、ヒグマも「バヒーッ」という聞いたことのない悲鳴を上げて泡を噴いた。ヒグマが動かなくなって一安心していた私だが、次の瞬間信じられない光景を目の当たりにする。

「………………………………」
「やめろぉ!!」

 現実とは思えないその光景から目が離せず、半開きの口を閉じる事も忘れてしまう。もしやとは思うが、姉畑さんの目的はこれだったのか―――

「杉元ッ!丸腰で向かっていってどうするつもりだ!!」

 ヒグマと色んな意味で一体化している姉畑さんに杉元さんが走り寄る。「もう充分だろッ!」と話しかけているが、その姉畑さんの様子がどこかおかしい。そう思っていた矢先、姉畑さんがヒグマから離れ地面に叩き付けられた。興奮したヒグマは再び杉元さんに襲いかかろうとしている。

「俺は不死身だぜ!!」

 ヒグマの爪を間一髪で躱した杉元さんは、矢を突き立てた。アシリパさんがさきほど打ち損じた、毒のついた矢だ。ヒグマはふらふらと歩いたのち、大きな音を立てて地面に倒れこんだ。アイヌの毒はなんて強力なのだろう。あれを人間が受けたらどうなるのか。背筋がぞくりと粟立った。

、無事だったか」
「た、谷垣いいい!!!それこっちの台詞だから!よかった!鼻削がれなくて!!」
「縁起でもないことを言うな……」
「……なんで釦はじけ飛んでるの?」

 明らかに面積の足りてない襦袢が最早襦袢としての役目を果たしていなくて、なんだかとても卑猥なものを見せつけられている様な気がした。やっぱり谷垣太ったよね?

「ウコチャヌプコロして力尽きるとは……鮭みたいな奴だったな」

 姉畑さんは既に息絶えていた。過度な興奮によるものだと思われる。ちなみに私はこの時漸く、謎の言葉「うこちゃぬぷころ」が所謂男女の交わりだということに気付いた。その死に顔は非常に穏やかなもので、きっとこの人はある意味幸せな死に方をしたのだろうなと呆れのような羨望のような、なんとも言えない気持ちになる。

「決死の想いも恋は成就せず……だったってわけか」

 姉畑さんの死にざまを言い表したその一言は、思いがけず私の心臓をちくりと突き刺す。第七師団を抜ける前、私は私に対して果たして想いが報われる未来はあるのだろうかと自問した。勿論尾形上等兵への想いは嘘なんかじゃないし、半端な気持ちでもない。だけど幾ら必死に追いかけようとも報われないことだってある。

「姉畑支遁が本当に動物を愛していたなら、どうして最後に殺すんだ?姉畑もどこかで動物とウコチャヌプコロするのが良くないことだと分かっていたんだ。あとになってその存在ごと無かったことにしようなんて……本当に自分勝手だ。どうしてウコチャヌプコロする前によく考えなかったのか……。そうすれば殺さずに済んだのに……なあ杉元!!そう思わないか?」
「…………」
「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」
「オイやめろッ!」
「女の子の前でなんてこと言うんですか尾形上等兵殿……」

 ……やっぱり私の恋は前途多難なようだ。でもここまで来たらもう後戻りはできない。人の気持ちをどうこうすることはできないけれど、私は私が後悔しないように生きよう。きっとそのためなら姉畑さんみたいに死んでも構わない。
 おかしな話だけど、私は姉畑さんと自分を少しだけ重ねていた。