朱仄へ3

 髪をかきあげるその仕草を最後に見たのはいつだったろう。入院していたあの頃より、更に髪が伸びているように見える。その声も、顔も、仕草も、すべてが懐かしくて、とても遠い過去の話のように錯覚してしまうほどだ。白黒だった記憶に色彩が戻っていく。谷垣のピンチだというのに尾形上等兵に目が釘付けになっていた私に気づいたのか尾形上等兵がちらりとこちらを見遣った。

「谷垣、きさまは小樽にいたはずだ。何をしにここへ来た?鶴見中尉の命令で、と組んで俺を追ってきたのか?」

 どうやら、谷垣のことを第七師団の追手だと思っているらしい。一緒にいた私のこともそう思っているようで、尾形上等兵の視線は敵意に満ちていた。まあ、貴方を追ってきたのは間違いないのですけどね……。

「俺はとっくに降りた!軍にもあんたにも関わる気はない。世話になった婆ちゃんの許に孫娘を無事帰す、それが俺の『役目』だ」
「頼めよ。『助けてください、尾形上等兵殿』と」

 今にも谷垣を殺しそうな勢いのアイヌの男たちには目もくれず、二人の押し問答が続く。たぶんこの場に、谷垣の味方は私だけだ。尾形上等兵はアイヌの男たちに負けないくらい殺気立っていて、さきほど装填したばかりの弾薬を谷垣へ撃ちこんでしまうのではないかとハラハラしながら見守る。「皆殺し」という単語にアイヌの男が反応して尾形上等兵へ銃を向けたが、そこへエカシと呼ばれたおじいさんが現れ、何かを指示したかと思えばアイヌの男たちは銃を下げた。一応命は助かった……のだろうか?と思ったのも束の間で、谷垣は拘束され村へと連行されることになった。私と尾形上等兵も後を追う。

……貴様、俺を追ってきたのか?」
「いえ、自分は第七師団を抜けてきました。……あ、でも、尾形上等兵殿を追いかけてきたのは間違いないのですが」
「おい、どっちなんだ」
「だ、だからですね、その……尾形上等兵殿がいないとどうにも調子がでないので、私もお供させてください」
「……俺が何のために動いているか、知っているのか?」
「知らないですね」
「……ばかなのは知っていたが、お前、本当にばかだな。何の考えもなしに陸軍を抜けたのか」
「う……一応考えた結果なんですけど……」
「悪いことは言わん、今からでも戻れ。お前は鶴見中尉に気に入られていたようだからまだ間に合うかもしれんぞ。軍を抜けたというのが本当なら、の話だがな」
「嫌です」
「貴様がいては足手まといだと言っているのがわからないか?」
「……もしこの先、私が尾形上等兵殿の邪魔になるのなら、始末してくださって構いません」

 この人の優しさには少しばかり、いや八割くらい山葵みたいな成分が含まれていると思う。足手まといはいらないというのも多分本音だろうけど、諭すような話し方をするあたりが残り二割のお砂糖なのだと勝手な解釈をしている。始末されてもいいと申し出ると尾形上等兵は少しの間私をじっと見ていたけど、そのあとも無言のままふいと顔を逸らされてしまった。銃を背負うその広い背中は私のすぐ目の前だ。手を伸ばせば届く距離。きっと二階堂にたきつけられなければ二度と見る事はできなかっただろう。ついさきほどまでは後悔の割合の方が大きかったのにこうやって尾形上等兵と再会してしまった今では嬉しさの方が勝っているのだから、我ながら現金だなあと思う。




 アイヌの集落に連行された谷垣は小屋のようなものに両手を縛り付けられ、村中の人間が私の分からない言葉で叫んでいる。十中八九谷垣の処遇についてだろうけど、少なくとも良い予感はしない。幸い、と言っていいのか、谷垣と一緒にいた私には嫌疑がかけられることはなく、どうすれば助けられるだろうかと考えながら谷垣を取り囲む村人たちの外側をウロウロしていた。尾形上等兵はそんな私とは対照的に高床式の小屋のようなものに上って高見の見物を決め込んでいた。尾形上等兵は当てにはできなさそうだ。流石にこの人数のなか強行突破は無理があるし……頭をフル回転させていたところに二人の男女が村に入ってくるのが見えた。私はその男を知っている。不死身の杉元。小樽で見たのは鶴見中尉によって串刺しの刑に処された痛々しい姿だったが、日露戦争で負ったであろう顔の大きな傷跡が残るだけで串刺し痕は見受けられなかった。杉元さんは私を一瞥しただけで特に気にする様子はなく、アイヌの集団を押しのけて囚われの谷垣の元へと進んでいく。処刑が決まったのか、小刀を抜こうとしたアイヌの男の間に杉元さんが割り込む。大男に顔面を殴られたにも関わらず、杉元さんは「まあまあ落ち着きなって」と冷静に軍帽を直した。それでもアイヌの男は収まらず、何度も殴られる杉元さんに村人たちがなにかを叫んでいる。相変わらず言葉はわからないけど「もっとやれ」とでも言ってるのだろうか。アイヌの少女が杉元さんを呼ぶと、杉元さんは左手をすっと出してにこりと微笑み、アイヌの男の顎に強烈な一撃をお見舞いした。男はよろめいて、そのまま後ろへ倒れてしまった。脳震盪を起こしたらしい。どこからか拍手の音が聞こえたと思ったら、尾形上等兵が楽しそうに手を叩いていた。それ何の拍手ですか?でもたしかに、あんなに綺麗に顎へ入れられるのは結構すごいかも、とちょっと感心しながら成り行きを見守る。

「犯人の名前は姉畑支遁。上半身に入れ墨がある男だ。この谷垣源次郎は、寝てる間に犯人に村田銃を奪われたドジマタギだ!」

 何事もなかったかのように真犯人の正体を告げる杉元さんが谷垣の襦袢の釦を引きちぎったかと思えば、急に谷垣の胸毛をむしり取る。私は一体何を見せられているんだろう。まあ、今回は谷垣自身のおっちょこちょいが招いた結果でもあるから、少しは痛い目見たらいいんじゃないかな。それにしても、谷垣、軍に居た頃より太ったんじゃないか?あんなに襦袢パツパツだったっけ?

「俺達が必ず姉畑支遁を獲ってくる」

 三日以内に姉畑さんをここへ連れてくることを条件に、処罰を待ってくれるという事になり、谷垣は本来なら子熊が入れられるという檻の中に入れられた。

「谷垣が入っても結構余裕あるから居心地は悪くなさそうだね」
「……」
「冗談だよ、私も姉畑さん探すから、心配しないでよ」
「この子、谷垣の知り合いか?」
「ああ……こいつも元第七師団だ」
「……こんな子供が?」
「失礼な!!もう二十歳過ぎてますよ!!ちょっと背丈が伸び悩んでるだけです!」
「そうなの?」
です、不死身の杉元さん……と、アシリパちゃん?」
「……やっぱり、俺のこと知ってるんだな」
「あ、いえ実は恥ずかしながら、知ったのはつい最近でして……」
「へえ、なんだ、第七師団の奴ら皆俺の事知ってたからてっきり」
「すみません、自分、尾形上等兵一筋なもので。あっ、握手してもらっていいですか?」
「なんで?」
「有名人だと聞きまして」
「……なんか、変わった子だね」
「えへへ」
、今のは褒めてないと思うぞ」

 檻の中から冷静につっこまれて、そういえばこんなことしてる場合じゃないなと我に返った。谷垣は姉畑さんと出会った夜、私たちが寝静まったあとにシカやヒグマについて話していたようで、ヒグマの話題にやたらくいついていたという。

「それやばいやばいッ!ヒグマに恋しちゃったら……入れ墨ごと食われちまうだろうがッ!」

 ヒグマに恋とは、なかなか個性的な表現をする人だ。なんだか想像していた人物像と全然違う。もっとこう……狂犬みたいな喧嘩っ早い人かと思っていたから拍子抜けした気分だ。……本当にこの人が、尾形上等兵に重傷を負わせたのだろうか。いや、尾形上等兵を疑うわけではないのだけど。どうやら姉畑さんも入れ墨の囚人の一人らしい。たしかに、その入れ墨が熊の爪なんかで傷つけられたら金塊がおじゃんになるかもしれない。そういう意味でも急がなくてはならない。

「私たちが三日以内に姉畑支遁を連れて戻れなかったときは……尾形が谷垣を守ってくれ」

 アシリパちゃんは尾形上等兵に向かってそう言った。アシリパちゃん、その人に頼んじゃだめだよと言いそうになるのをぐっと堪える。いや、腕は確かなのだから、そういう意味では正解なのか?なんにしても、尾形上等兵が素直に承諾するとは思えないけど……。だけど、どういうわけか尾形上等兵はこの釧路まで杉元さんたちと旅をしてきたようだから、もしかしてアシリパちゃんには心を許していたりするのだろうか。……付き合いのそこそこ長い私には塩対応だったからもしそうならはっきりいって複雑だ。

「あの子熊ちゃんを助けて俺に何の得がある?奴は鶴見中尉の命令で俺たちを追ってきた可能性が高い。鶴見中尉を信奉し造反した戦友三人を山で殺す男だ」
「谷垣と行動していた三人のことか?あいつらを殺したのはヒグマだ。俺がその場にいたんだから間違いない」

 三人とは、玉井伍長たちのことだろうか?あの日山へ向かった玉井伍長の班はそのまま軍に戻ることはなく、聯隊内では様々な憶測が飛んでいた。神隠し説に造反説に凍死説。けれど生還者が一人もいないから結局はただの憶測でしかなかった。杉元さんは谷垣以外の三人がヒグマに殺されるところを目にしたというのか。ならば、三人の遺体は今でも小樽の山のどこかに放置されているのか――

「谷垣はマタギに戻りたがっていた。足が治ったあとも軍に戻らずフチの家にいたと聞いた。谷垣に何かあればフチが悲しむ」
「アシリパさんの頼みを聞かねえと……嫌われて獲物の脳みそ貰えなくなるぜ」
「の、脳みそ……?」
「言っとくが…………俺の助ける方法は選択肢が少ないぞ」

 私はすばやく脳内手帳に尾形上等兵の好物を追記した。私としたことが、尾形上等兵の好物を聞き漏らすとは何たる不覚。しかし、あの尾形上等兵を餌付けするとは、アシリパさん恐るべし。しっかりした印象を受けるけど、まだ十代前半くらいではないだろうか?私よりも少しだけ背の低いアイヌの少女、アシリパさんは杉元さんを連れだって村を出ようとしたので慌てて呼び止める。

「自分も同行してよろしいでしょうか」
「……君も、第七師団……なんだよね?」
「もう抜けましたけどね」
「安心しろ。こいつは馬鹿だから、良からぬ事を考えていればすぐ顔に出るぞ」
「……尾形上等兵殿、そんなにばかばか言わんでくださいよ」
「けどなあ……」
「……では、尾形上等兵の弱点をお教えします。これで如何ですか?」
「お、尾形の弱点は興味あるな……」
「でしょでしょ?」
「おい……てめえ余計なこと言ったらただじゃおかねえぞ」
「ま、冗談はさておき、谷垣を助けたいのは本当ですよ」

 ちらりと檻の中の谷垣に目をやると、静かに正座して目を閉じていた。もう、じたばたしても仕方がないのだ。私たちが姉畑さんを連れてこれなければ、たとえ冤罪でもそれが真実となってしまう。少しの沈黙のあと、杉元さんはアシリパちゃんを振り返った。

「アシリパさん、いい?」
「人数は多い方がいい。釧路湿原は広いから。、一緒に行こう」
「はい!」