朱仄へ1

 私、は悩んでいた。
 二階堂浩平が用意してくれたのは、病衣である。病院内であればこれほど最適な着衣はないが、町中では目立って仕方がない。闘病生活に嫌気がさした長期入院患者が逃げ出したようにしか見えないのでは、と心配になり人目を避けるように林や森を進んでいたが、おかげで病衣はぼろぼろのどろどろだった。どこかでなんとかして新しい服を揃えたいところだがこの恰好で人前に出るのは躊躇われる。しかしいつまでも隠れているわけにはいかない。尾形上等兵に会うためにここまで来たのだから。第七師団の司令部は旭川に置かれている。その旭川を避け、私が訪れたのは江渡貝邸だった。焼け跡が生々しい江渡貝邸は、時が止まったように静かに佇んでいた。無意識に耳へと伸びる傷跡をなぞる。あの時掠めた銃弾の痕は思ったより深かったようで、まだ完治していない。建物の周りをぐるりと周ってみる。二階部分の屋根は完全に焼け落ちていて、一階も一部を除いて焦げた柱が頼りなさげに残るだけだった。内部の瓦礫もそのままになっていて、脳裏に二階堂の顔が過ぎった。この中に浩平の右足も埋もれているのだろうか?それとも、もう燃え尽きて消えてしまったのか。丁度一周しようとしたとき、正面玄関の前に人が集まっているのに気付く。ただならぬ雰囲気を感じ取り、見つからないよう注意しながら小銃を構えた。

「銃を捨てろ。その女は俺の家族だ」
「た、谷垣……?」

 縄で縛られた女性を助けに入ったのは、数か月前に第七師団から姿を消した谷垣だった。姿を消したというか、最早死んだと思っていた私は幽霊でも見たような信じられない気持ちでその光景を眺めていた。変わった着物を羽織り、手には村田銃を構えた谷垣は私が助けに入る暇もなく、柄の悪そうな三人の男たちを片付けてしまった。中途半端に銃を構えたまま唖然としている私の姿を先に見つけたのは谷垣だった。

「……、か?」
「うん……ひ、久しぶり……てっきり死んだものだと」
「まあ、いろいろあってな」
「谷垣ニシパの知り合い?」

 変わった柄の着物を着た女性に、小さな男の子。その顔ぶれから連想したのは。

「……駆け落ちでもしたの?」
「ち、違う、ばかをいうな」
「まさか子持ちとは……流石の私でも想像できなかった」
「違うと言っているだろう!だいたい、こんな大きな子供いるわけないだろう」
「じゃあ、どういう関係?」

 口ごもる谷垣を、にやにやと面白そうに眺める。真面目な谷垣はこの手の冗談があまり通じないようで少しだけ頬を赤く染めて「お前が想像している様な関係ではない」と否定した。良い反応してくれるなあ、谷垣は。

「それよりも、お前はそんな恰好で何をしているんだ?」
「あ~……実は、第七師団抜けてきちゃった!」
「抜けたって……どうしてまた、」
「恋だよ、谷垣一等卒」

 いつか誰かに言ったような台詞を口にした私は、馬鹿な事したなあと自嘲するように笑った。恋、なんて目に見えない何かに突き動かされて取り返しのつかないことをしてしまったと思っている。二階堂は、覚悟はあるかと問うたが、覚悟できているのかどうか今でも自信がなかった。むしろ割合で言えば後悔の方が大きいような気もしている。残してきた二階堂の事も気がかりだ。洋平と両耳と右足を立て続けに失った浩平を見ているのは苦しかった。自分を逃がしたと知られればまた何かしらの制裁を加えられるかもしれない。私の決断は、本当に正しかったのだろうかと、道中ずっと考えていた。

「尾形上等兵を探すのか」
「まあね。で、谷垣たちは何をしてるの?」
「俺達は網走へ向かっている」
「谷垣も?」
「……そうか、お前もか」
「うん、尾形上等兵の目的地が、網走だろうって、に……いや、風の噂で聞いて」

 二階堂の名前は出さない方がいいだろうかと一瞬迷い、言わないことにした。我ながら風の噂って何だよと思いはしたが谷垣は深くつっこんではこなくてほっと安心する。目的は違えど目指す場所は同じならばと、谷垣は同行を提案したが方向音痴の私にとってその提案は大変有難いものだった。

「……お前、よくここまでこれたな」
「うん、この辺来たのは三回目だから」
「そうなのか」
「えっと、インカラマッさんとチカパシくんは、その……自分が付いて行ってもいいですか?」
「勿論、谷垣ニシパのお知り合いですから」

 にこり、と笑うインカラマッさんは血と土にまみれた自分とあまりにも違いすぎて、本当に同じ女性なのだろうかと疑ってしまう程眩しく見えた。チカパシくんも異議はないようでぴょんぴょん跳ねて仲間が増えることを喜んでいる。

「谷垣、早速お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「……なんでもいいから、着物買ってきて……」