私の父は帝国陸軍中佐だった。幼い私にはそれがどのような役職なのかわからなかった。ただ、家を空ける事の多い父に対して「忙しいお仕事なんだなあ」くらいの理解はあったのを覚えている。私が他の子と違うと気付いたのは幼年学校入学直前のことだ。何故自分は他の女の子と違ってお花柄の着物を持っていないのだろう。街ですれ違う華やかな着物を身にまとった同年代の女の子を見ていて、それまでは気にならなかったことが急に気になりだした。けれどこれは両親に聞いてはいけない気がする。幼心にそう思った。物心ついた頃から私は「お前は将来、お父様のような立派な軍人になるんだ」と両親に言い聞かされて育った。家には男子が生まれなかった。だから私は生まれる筈だったその男子の代わりとして、大好きな両親の期待に応えなければならないのだ。
初めて杉元さんを見たとき、何かを思いだしそうで思いだせない、奥歯にものが挟まったような気分になった。それがなんだったのか、辺見和雄とのやり取りで漸くわかった。杉元さんの顔の傷は日露戦争を思い出させるもので、私は無意識のうちに杉元さんの顔を見ないようにしていた。聞こえる筈のない戦場の音が蘇り、私はそっと左目に残る傷跡を抑える。
白石さんの提案で、浜に打ちあがったシャチを竜田揚げにすることになった。例のごとく、近くの民家で調味料を調達してくれた白石さんが手際よく揚げ物の準備を始める。普段役立たずという不名誉な称号で呼ばれる白石さんだが、こういった食事のときは輝いていると思う。アシリパさんの次に、だけど。
「ほら、も食べろ」
「どうも……」
「……なんだよ、今度はちゃんが杉元と喧嘩してんの?」
「してねーよ!」
「してません」
「んもー、喧嘩してないならこの雰囲気なんとかしろよ!」
いや、喧嘩ではなく、私が一方的に避けているだけなんです。なんて言ったら理由を聞かれるのは避けられないだろうからだんまりを決め込むほかない。杉元さんから何か言いたげな視線を感じたけどガン無視した。竜田揚げに続いて、さきほど白石さんが拾った子持ち昆布も串揚げにする。猫舌という意外な弱点が判明した杉元さんに白石さんが「ダセえなッ!!」とつっこんでいたので、実は私も猫舌とは言いだせず熱々の揚げ物を口に放り込む。涙目状態なのを悟られないよう、大きなシャチを解体しているアイヌたちを眺めていた。今日の宿のあてがなかった私たちだが、ダメ元でヤン衆のおじさんに聞いてみたらここから数十キロ先の別の番屋を紹介された。夕暮れ前に出発したから番屋についた頃にはもう真っ暗になってしまい、おねむのアシリパさんは舟をこいでいる。しっかりしていてもまだ子供だなと微笑ましい気持ちでアシリパさんを見守る。やっぱりなにか言いたげな視線を寄越してくる杉元さんには気付かないふりをして、普段は飲まないお酒を白石さんに分けてもらった。
「あんたらヤン衆にみえないねえ。旅行かい?」
「ええ、まあ……あなたも?」
突然現れたヨボヨボのおじいちゃんが孫に似ている、と言ってアシリパさんを抱っこした。おじいちゃんのお膝に乗せられたアシリパさんは余程眠いのか、なすがままだ。完全におじいちゃんと孫を見ている気分だったけど、白石さんが急に悲鳴を上げたので少しむせてしまった。
「同じ目をした知り合いがいる」
ほっかむりを取ったおじいさんは思いのほか精悍な顔つきをしていて、若い頃はブイブイ言わせていたのかなあとぼんやり考えた。おじいちゃんはアシリパさんの名前に興味があるみたいで、和名を訪ねてきた。明治以降の戸籍制度ではアイヌにも和名を持つことを義務付けられたというが、これまで出会ったアイヌの人たちで私に和名を名乗ってきた人はいなかった。もちろん、アシリパさんも。一番付き合いの長い杉元さんですら知らないらしく、それを聞いたおじいちゃんは何か考えるように「そうか」と呟いた。
「今にも血が吹き出しそうな生々しい顔の傷。『梅戸』にも似たような傷があった」
「ウメド?あんたの友達かい?」
「だがその内に秘めた凶暴さは……鍬次郎かな」
どこかで聞いたことがあるようなないような、ふわふわした違和感を残して、おじいちゃんは立ち去った。その違和感を掴もうとしていたらおじいちゃんの袖に涎ついてるのを言いそびれてしまった。すっかり熟睡してしまったアシリパさんを膝枕に乗せ、私はまだお猪口に残っているお酒を舐めるようにちびちび減らしていく。隣でぐびぐびと酒を煽る白石さんが羨ましい。
「変なジイさんだったな」
「なんだちゃん、全然飲んでないじゃん」
「……まあ、元々お酒苦手なので」
「じゃあなんで飲もうとしたんだよ」
「き、気分ですかね……」
「はあ~、もう寝ようぜ!」
白石さんが伸びをして立ち上がったのでじゃあ私もとアシリパさんを抱えて立ち上がろうとしたのだが、杉元さんに止められてしまう。捕まれた腕が地味に痛くて、少しだけ顔を顰めた。この人は、アシリパさんは壊れ物に触るようにするのに、他の人には力加減がめちゃくちゃなところがある。
「お前、今日なんか変だぞ」
「別に……普通ですが」
「いーや、絶対おかしい!」
「杉元さんの気のせいですよ」
「……たしか、辺見を取り戻したあたりから……。わかった!やっぱり裸見るの恥ずかしかったんだろ」
「だから、違いますって……とりあえず、痛いので離してもらっていいですか」
真顔でそうお願いしたら、杉元さんは気まずそうに「すまん」と言って手を離した。……少し冷たい言い方をしてしまっただろうか。これじゃただの八つ当たりだ。杉元さんは何も悪くないのに。
「……すみません、怒っているわけではないのです……」
「……そっか」
おやすみなさい、と寝床へ行こうとしたらまたしても杉元さんに止められた。
「俺が連れて行くよ。寝てると重いでしょ」
「あ……ありがとうございます」
杉元さんがよっこいしょ、とおっさんくさい掛け声で私の腕からアシリパさんを抱きあげたものだからつい笑ってしまって、慌てて口元を隠す。でも笑っていたのはばっちり見られていたようで杉元さんもぷっと吹き出した。非常に恥ずかしい。それを誤魔化すように「早く行ってください」と背中を押したら前の方からはいはい、と聞こえてきた。私の勝手な感傷で杉元さんを傷つけたのではないかと思っていたから、やけに楽しそうなその声に胸をなでおろす。寝床では白石さんが既に就寝していて、私もその横に寝ころんだ。アシリパさんを寝かせたあと、杉元さんもぼすん、と大きめの音を立てて布団に倒れこむ。
「」
「……はい?」
「おやすみ」
「……おやすみ……なさい」
その数秒後には杉元さんの寝息が聞こえてきた。寝つきの悪い私からしたら羨ましい限りだ。まだまだ寝られそうにない。じくりと痛んだ右手を天井に伸ばし袖の釦を外すと、捲れた袖から出た腕が外気に晒され、その冷たさに思わず身震いする。月明かりでぼんやり白く浮かび上がる私の腕にはさきほど掴まれた痕だけでなくて、たくさんの傷跡が残っていた。そっと目を閉じると、静寂の向こうから砲聲と雄叫びが追いかけてくる。その騒々しい子守唄を聞きながら今日も私は戦場へ足を向けるのだ。