杉元さんたちが海で助けたおじさんは、お礼にと白米とニシン漬けをご馳走してくれた。……自分何もしてないんだけど……と思ったけど正直白米が食べたかったので黙っておく。ニシンが美味しいのは勿論の事、久しぶりに食べる白米も絶品だ。白米で白米が食べれるくらい美味だ。食事が終わって、「オソマ行って来る」と言いだしたアシリパさんに杉元さんが優しく注意する。これには私も同意だ。女の子だから……という以前に食卓で堂々とオソマ宣言するのはどうかと思うよ。
「…………ところで、旅順へ出征なされたんですか?どうでした?」
「どうって?」
「僕は事情があって出征できなかったんで興味があるんです。人は殺しましたか?」
戦争にどうもこうもない。あそこは殺らなければ殺られるだけの非現実世界だ。人を殺すあの瞬間、自分が別の生き物になったような感覚に陥る。それが延々と、何日も、何か月も続いていく。仲間のものとも敵のものとも分からない咆哮の嵐の中、只管前へ足を出す。そしてまた只管に出会った敵の生命を終わらせる。……あの時の自分はどうかしていたのだ。今では思い出すだけで手の震えが止まらないというのに。杉元さんは殺した相手の顔は忘れていないと言った。私も同じだ。殺した相手の死ぬ間際の、光を失っていくあの顔がずっとずっと忘れられない。
「せめて忘れないでいてやるのが俺の償いさ。俺には俺の、殺さなきゃいけない道理があった。必要ならば鬼になる覚悟だ。そのかわり……俺がくたばる時は安らかに死なせて貰おうなんてつもりは毛頭ない」
自分には杉元さんのような覚悟があるだろうか。迷いのない杉元さんの瞳を真っ直ぐ見据えることができなくて自分の手元へ視線を落とした。全身に染みついた血は、この身が朽ち果てるまで落ちる事はないだろう。果たして、それで落ちてくれるのかすらわからない。もう許してくれと泣いて縋っても閻魔様は許してくれないのかもしれない。そうやって未来永劫血の臭いを身にまとったまま、私は生きて行くのだろうか。
「あ…………しまった」
ヤン衆のおじさんが間の抜けた声を上げて、私は現実へと引き戻される。見せたいものがあるからと言って、おじさんは私と杉元さんを外へ連れ出そうとした。
「アシリパさん置いてっていいんですか?」
さすがに一人で置いていくのは……と渋る私だったがどうしてもその何かを見せたいのか「すぐ戻りますから大丈夫ですよ」と誘いだそうとするおじさんに少し違和感を覚えつつ、杉元さんをちらりと見遣ると、さほど気にしていないようだった。
「心配しすぎだよ。ちゃっちゃと行って帰ってくれば大丈夫だろ」
「うーん、そう、ですかね」
「そうですよ、そんなに時間は取らせませんから」
アシリパさんを待てばいいのでは?そう聞く前におじさんと杉元さんは番屋を出ようとしていた。おじさんはさきほどと同様ニシン加工に使用する道具を見せて「どれがお気に入りですか?」と妙にワクワクした顔で杉元さんに尋ねた。さきほどから気になってはいたけど、この人はニシン加工用の道具が好きなのだろうか。切れ味のよさそうな刃物が気になる私みたいに一種の職業病みたいなものかもしれない。わかります、わかりますよ。早いところ白石さんと合流したい杉元さんがおじさんをあしらっている後ろで、一人うんうんと頷いていたら、ふと視界の端に同じような恰好をした集団が映った。
「杉元さん、あれ」
「第七師団…………!!」
「見つかるとまずいんですか?」
「俺を探してるわけじゃないと思うが…………見つかるとタダじゃすまされねえ」
「あそこに匿ってもらいましょう!親方が住む豪邸で隠れるところがいっぱいあります!」
「私、アシリパさんを探してきますね!」
「すまん、頼む」
丘の上にある大きなお屋敷へ走って行く二人を見送り、私はアシリパさんと合流するべくさきほどまでいた番屋へ戻ろうとした。
「!」
「あっ、アシリパさん!よかった」
「大変なんだ、!さっきオソマしに行ったら、便所に死体があってオソマできなかったんだ!」
「うん……えぇ?それは……た、大変じゃないですか……!」
私は一体どっちに驚けばいいのだろうか?とりあえず緊急事態なことは伝わった。この何処かに入れ墨の囚人がいるかもしれない。だが囚人を探す前に、限界を迎えそうなアシリパさんを早急に厠へ連れて行くという重要任務ができてしまった。杉元さんたちは丘の上にあるお屋敷へ逃げたから私たちもお屋敷に向かってついでに厠も借りよう。アシリパさんも私も、恐らく顔は第七師団に割れていないはずだが用心するに越したことはない。さきほどの第七師団に見つからないようこっそりお屋敷へと向かった。無事厠を借りたアシリパさんが戻ってくると、何やら複雑な表情をしていた。
「……見たことない便所だった……」
「え、どんな?」
そんなこと言われたら自分も気になってしまう。自分も借りようかななんてのんきなことを思ったところで、割と近い場所から銃声が聞こえた。少ししてから、今度は一定間隔で銃弾が撃ち込まれる音が聞こえ、アシリパさんと顔を見合わせる。こんな場所で機関銃?民間人がそんなものを持っているものだろうか?そうでないとしたら第七師団が持ち込んだのか?連続殺人犯とはいえ、たかが囚人ひとり捕まえるのにそんな大掛かりなもの持ってくるものだろうか……。これが囚人を捕まえる為の射撃でない場合、他の可能性はひとつ、杉元さんが第七師団に見つかってしまったのだ。矢じりにつけられた毒を素早く削り取ったアシリパさんと一緒に、杉元さんを探すべく急いで屋敷の外へ出た。
「こっちだ、」
迷いなく走って行くアシリパさんの後ろを必死で追いかける。まるで杉元さんたちの逃げた場所がわかるみたいに、どんどん走って行く。身軽なアシリパさんは足場があまりよくない岩場もスイスイ進んでいくので追いかけるのが一苦労だ。崖の上まできたとき、砂浜に杉元さんたちの姿を見つけた。よかった、まだ捕まっていないようだ。そう思ったとき、おじさんが繋いでいた手を離して、玉切包丁を振りかざした。まさか、あの人が――――私が銃を構える前に、アシリパさんがおじさんに向かって矢を射た。即座に応戦する杉元さんがおじさんを銃剣で突き刺す。……にも関わらず、何故かおじさんは笑っていた。さきほど私たちに見せた、あの、ワクワクとした顔をしていた。
「急げ杉元ッ!第七師団が追ってきてるぞ!」
口から血を吐いたおじさん―――辺見和雄はさきほどまでとは違う殺人鬼の目になっていた。容赦なく銃床でぶん殴られ、銃剣を胸に刺され、それでもなんだか嬉しそうに見えるのは……きっと私の気のせいだろう。殺されそうになって喜ぶ人間なんてこの世にいるのだろうか?銃剣が辺見和雄の心臓を貫こうとしたそのとき、突然現れたシャチが辺見和雄を銜えて海へ戻っていった。
「………………………………え――――――――――――――ッ!?」
「なんだこりゃ!!」
「レプンカムイだ!!」
辺見和雄を取り戻すべく舟に乗り込んだ私たちが海上で見たのは、シャチが辺見和雄を空高くぶん投げている光景だった。高い高ーい、みたいなやつである。後ろからは第七師団も迫っていた。この状況でどうやって辺見和雄を取り戻せばいいのか……。思案する私の目の前で、杉元さんが衣服を脱ぎ始めた。え、まさか……。
「ちくしょう!このクソ冷たい海に飛び込むのかッ!オイ止まるなよ、俺の心臓ッ!」
丸裸になった杉元さんが自分の心臓にそう言い聞かせながら胸をどんどんと叩いた。この冷たい海に飛び込むなんて、考えただけで心臓がきゅっと縮こまる気がした。まあ、カナヅチの自分からしたら冷たくなくても海に飛び込むのはご免なのだが。目を覆ってると思ったらいつのまにかがっつり覗いていたアシリパさんに杉元さんが「見ないでッ!!」と叫んだ。勇敢にも本当にこの極寒の海へと飛び込んだ杉元さんを、私は舟の上から覗きこむようにして見守った。残念ながら海の中の様子はわからない。時折黒い影が横切るのは見えるけど、それが杉元さんのものか只の魚なのか、はたまた辺見和雄なのかまでは判別できなかった。暫くして、杉元さんが海面に顔を出した。杉元さんが辺見和雄を掴んで舟に上がった瞬間に、アシリパさんがシャチに向けて銛を打ち込む。
「引っ張られるぞっ!つかまれっ!!」
繋がれたシャチに引っ張られ、人力で漕ぐのとは比べものにならない速さで舟が動きだした。「このまま第七師団をまいてやろうッ!」と叫ぶ杉元さんに異論はないけど、早く服を着てほしい。この速さでは恐らく追いつかれないだろうけど、確認したくても素っ裸の杉元さんがどうしても視界に入る事になるので後ろを確認することもできなかった。
「!俺の上衣踏むなよっ!」
「えっ……うわっ、すみません!」
足元を見たら、杉元さんの言う通り私はがっつり紺の上衣を敷物状態にしていた。この状況じゃ仕方ないから許してほしい。急いでそれを掴みあげて後ろを見ないように杉元さんの鼻先へ突きつけた。
「なんだよ、もしかして恥ずかしがってる?」
「いや、別に……」
「ふーん?」
上衣を受け取った杉元さんはごそごそと動いていた。服を着ているのだろう。いくら陸軍という男所帯での生活が長かったとはいえ平常心で男性の全裸を見れるほど女は捨てていない。いや、違う……そう、これはあれだ。恥ずかしいのではなく、人としての礼儀というか…………何故私は心の中で自分に言い訳をしているのだろう。当の杉元さんはもう私への興味は失っていたみたいで、隣で永久の眠りにつく辺見和雄をじっと見ていた。
そのあとぽつりと「おまえの煌めき……忘れないぜ」と呟いたのを、舟に居た私たち三人全員聞き逃さなかった。