最果ての熱砂10

「キロランケニシパ!」
「アシリパか?」

 イトウの話をしていた私たちの前に丁度イトウを獲っている大柄な男が現れる。アシリパさんがその男をキロランケニシパ、と呼んだ。アシリパさんのお父さんの昔の友人だという。白石さんが飴と交換でイトウを分けてもらおうとしたけどタモ網を貸してやるから自分で獲れとキロランケさんに言われてしまって「面倒だな」と愚痴を零していた。そう言いつつもきちんとやろうとするあたり白石さんは結構真面目な方だと思う。しかしイトウを獲るため橋を歩いた白石さんは何もしないうちにその橋を踏み抜いて湖に沈んだ。悲しいかな、もう一連の流れすぎて誰も驚かない。

「ここすげえ深い!!助けて冷たい!!」
「こっちに掴まれ、役立たず」

 杉元さんの後ろから覗きこんだ湖の中、人間の何倍も大きな魚が白石さんを銜えていた。

「イワンオンネチェプカムイだッ!!」
「白石さーーーーん!!」
「白石が食われた~~~ッ!!」

 もう助からないかも……と絶望していたら、先ほどの巨大な魚が打ちあがった。キロランケさんが助けてくれたらしい。手には小刀が握られていた。白石さんの安否を確かめるべく駆け寄ると、丸呑みされかけた白石さんがイトウと合体して人魚状態になっていた。なんとか生きてはいるようでほっと安心する。とにかく、白石さんもキロランケさんも体を温めないと。

「白石さん、服乾かしますから、貸してください」
「う、うん」

 唇を紫色に変色させた白石さんがぷるぷると震えながら脱衣した服を私に寄越したので、それをたき火にあてようとしたが、水を吸った半纏が滅茶苦茶重くて思わず「うっ」と声を上げた。水を絞った方がいいかもしれない。半纏以外をひとまず枝にかける。一人で絞るのは骨が折れそうだ…………正直なところ、未だに杉元さんの顔を直視できない。でもこの力仕事をアシリパさんに頼むのは気が引ける。小さく深呼吸をして、杉元さんの背中へと声をかけた。

「す……杉元さん」
「ん?どうした?」
「白石さんの半纏の水を絞りたいので、手伝ってほしいのですが」
「…………やだ」

 そうか、嫌なのか……普段優しい杉元さんが頼みごとを断るとは予想していなかった。そのせいか胸がずきりと痛んだ気がした。この間から失礼な態度ばかり取っていたから、本当に嫌われたのかも。あ……でも、白石さんの頼みは断ってたっけ?なんにしても、断られてしまったものは仕方がない。諦めて自分一人で頑張るかと思っていた私の顔を杉元さんが覗きこんできて、頭上に影ができた。

「ちゃんと俺の目を見てお願いしてよ」
「……そ、それは」
「……できない?」

 恐る恐る杉元さんの顔へ視線を上げると、真っ直ぐに自分を見つめる茶色がかった色素の薄い双眸と搗ち合った。日露戦争を思い起こすものなんてこの世に溢れかえっているというのに、自分は如何してこんなに杉元さんの傷を見るのが怖いのだろう。戦争を思いだしたくないと言いながら未だ背中に小銃と刀を背負うのは矛盾ではないか。

「お、お願いします、杉元さん……」
「……なんでそんな、泣きそうな顔するの」

 はあ、とため息を吐いた杉元さんは半纏をしっかり掴んでいるよう私に指示を出した。杉元さんが半纏のもう片方を持ってそれを捻ると、面白いくらい大量の水が地面に落ち、雪を溶かしていった。私のお願いの仕方が悪かったのだろうか。少し機嫌が悪そうに見える。杉元さんは粗方水分の抜けた半纏を見て「こんなもんだろ」と私に返すと今度は大きなイトウを解体するアシリパさんの手伝いを始めた。アシリパさんと杉元さんは、今しがたの気まずいやり取りをしていた私とは打って変わって楽しそうに会話していて、私はどうすればアシリパさんみたいに素直になれるのだろうと考えていた。色々な利用方法のあるイトウだが、アシリパさんはこのイトウを加工品にするか食べてしまうかで迷っていた。個人的にはものすごく食べたそうに見える。杉元さんにもそう見えるのか、はたまた盛大なフリなのか。杉元さんの「食べちゃえばぁ~~~?」という提案で、結局私たちはイトウを食すことにした。まずはお刺身。そして、見たことないくらい大きな切り身の塩焼き。口に入りきらないほど大きな切り身にみんなでかぶりついた。少しお行儀が悪いけど、美味しさが倍増している気がする。杉元さんはイトウの目玉も貰っていた。ゆでだこの味がするらしくてアイヌでは子供のおやつに大人気だという。

「杉元……不死身の杉元か?」
「……なぜそれを?」
「俺は第七師団だ」

 それを聞いた杉元さんが、腰の銃剣に手をかけた。先ほどまでの和やかな雰囲気が嘘のように、周りの空気がぴんと張り詰める。

「鶴見中尉の手下か?」
「待て、杉元ッ!」
「鶴見中尉?俺がいた小隊の中尉は別の人間だ。それに俺は除隊して村で生活しているから、誰とも関わりはない」

 小隊とは師団の編成の中での小単位だ。第七師団には小隊が4つあり、1つの小隊には100名弱の兵がいたという。つまり一言に「第七師団」といってもその全員が鶴見中尉の部下とは限らないのだ。だが、鶴見中尉の部下でなくとも「不死身の杉元」は第七師団で有名な存在らしい。

「アシリパはどうしてこの男たちと一緒にいるんだ?」
「う~ん……。相棒だ。そしてこっちのシライシは役立たずだ」
「そっちは?」
だ」
「あんたも元軍人さんかい?」
「あ、はい。自分は第二師団です」
「……そうかい……」

 キロランケさんは私をじっと見つめた。見透かされているみたいで居心地が悪かったけど、にこりと笑って誤魔化す。アシリパさんと最後に会ったのは彼女のお父さんのお葬式らしい。アシリパさんは今よりもっと小さい頃から賢い子供だったというけど、そう言われても全然驚かないな。付き合いの短い私から見ても、この子は本当に聡明だ。

「戦争から戻っていたなら、会いに来てくれれば良かったのに」
「行ったけどお前はいつも村にいないと聞いたぞ。だから俺はここで待っていた。アシリパに伝えることがあるのだ」

 キロランケさんの村に一人の老人が現れたらしい。その老人は「小蝶辺明日子」という女性を探していたというのだが、その「小蝶辺明日子」というのがアシリパさんの和名だという。そういえば、番屋で出会ったおじいちゃんがアシリパさんの和名を気にしていたなあ……。

「のっぺらぼうはアシリパの父親だ」
「アチャが…………アイヌを殺して金塊を奪うなんて、そんなの嘘だ」

 予想もしなかった事態に、ごくりと唾を飲み込んだ。アシリパさんのお父さんは生きている、のか……囚人として。隣に座るアシリパさんの背中にそっと手を当てた。その小さな体は少し震えている。のっぺらぼうが本当にアシリパさんのお父さんだというなら、アイヌを殺したのはお父さんということになってしまう……。いくらしっかりしていても、まだ十代半ばくらいだろうアシリパさんが受け入れるにはあまりに酷な話だ。

「信じない。自分の目で確かめるまでは。私は、のっぺらぼうに会いに行く」

 瑠璃色の大きな瞳は固い決意に満ちていた。だけど、のっぺらぼうに面会なんてできるはずもない。

「網走は地の果てだぜ」
「でも本当にのっぺらぼうがアシリパさんの父親なら、囚人を見つけなくたって直接本人から金塊のありかを聞ける」
「面会なんてできない。厳重な監獄だぞ……忍び込むのは不可能だ。どうやって本人に会うんだ?」
「そこはほら、」

 名指しされた脱獄王、こと白石さんは目を輝かせていた。

「脱獄王?なんだ?それは」
「白石は網走監獄を脱獄してきた入れ墨の囚人だ」

 白石さんの入れ墨を見たキロランケさんは、すぐさまその入れ墨が皮を剥ぐことを前提にして彫られていることに気付く。「他にもあるのか?」と言ったキロランケさんに、杉元さんは無いと答えた。嘘を吐くのは、何か考えがあるのだろうか。ちらりと白石さんを見たけど小さく首を振られた。川を下ったところにキロランケさんの住む村があるらしく、今日はそこへ泊めてもらうことになった。「チプ」という丸木船の上で、キロランケさんはアシリパさんのお父さんのお話をしてくれた。ロシアから一緒に海を渡ってやってきた彼らは小樽でそれぞれの家庭を持ち、疎遠になってしまったそうだ。キロランケさんにものっぺらぼうの目的はわからないらしい。

「入れ墨を見てピンとくるものはないのか?アシリパちゃんにしかこの暗号は解けないってことなんだよな?」
「もしそうだとしても、全部集めないと解けないはずだ」
「囚人を探すより……何よりもまずのっぺらぼうに会って確かめたい。もし本当にのっぺらぼうが私の父親なら、娘の私にだけはすべてを話てくれるはずだ」

 確かに、居場所もわからない囚人たち……あと何人いたか忘れたけど、全員を探して刺青人皮を回収するよりは手っ取り早いかもしれない。キロランケさんも私と同じような考えのようだ。そこに白石さんが「甘いぜ甘いぜ」と口を挟んだ。網走監獄は脱獄王の白石さんにすらとびきり厳重と言わしめるのだから、相当なことだろう。

「本人に会うなんてまず不可能だろうぜ。俺の協力無しではなッ」
「脱糞……いや、脱獄王」

 食料調達以外であまり役に立っている印象のない白石さんだけどこのときばかりは頼もしく見えた。たぶん、出会ってから今までで一番輝いていると思う。