釧路から約30キロ、時間にして約1日歩いた塘路湖へと立ち寄る。例によって泊めてもらったアシリパさんの親戚の家で入れ墨の囚人の情報を手に入れた。都丹庵士というのがその盲目の囚人の名前だ。完全な盲目というのは案外少ないと聞いたことがあるが都丹庵士はどうだろう?私はあんまさんを見る度、光の届かない常闇を想像して瞼を下ろす。そうしていても眼球は薄い瞼の裏から視神経を通して光を捉え、かすかに皮膚の色を感じていた。やがて目を開ければ視界いっぱいに色とりどりの光景が飛び込んできて暗闇は終わる。白石さんから入れ墨の囚人の情報を聞きながら、私はゆっくりと瞼を下ろしてその裏側を見たが、それはなんの意味のない行為だった。瞼の裏を見ることで彼らの世界を理解しようとしても、所詮そんなことは不可能なのである。
視線を感じて横を向くと、尾形さんが不思議そうにこちらを見ていた。不思議そうに、というのは私の主観であり、一見すればいつも通りの無表情である。杉元さんの忠告とは裏腹に、最近では彼の表情の機微に敏感になりつつあった。意識してみればこの朴念仁も案外表情豊かで面白い。正解がわからないというのが難点ではあるが。
「盲目の世界って、どんな感じなんでしょうね」
「瞽女にでもなりたいのか」
「……それは困ります」
「なら、滅多なことは言わねえことだ。お前が同情したところで盲人が減るわけでもなし」
尾形さんはいつも正しい。というより、つい頷いてしまうような説得力がある。正しいか否かに関わらず、彼の言葉に共鳴することが多かった。盲人を理解したところでそれは同情するための材料の一つにすぎないのだと、今回も私はすんなりと彼の言葉を受け入れる。
「のだめなところはな、他人に寄りすぎるところだ」
「……なんですかいきなり。お説教ですか」
「杉元と似てるな?」
尾形さんはすぐ隣の杉元さんに聞こえないよう、声を潜めて私に低く囁いた。じろりと睨んでみても肩を竦めるばかりで効果はないようだ。一連のやり取りを横で傍観していた白石さんが「尾形ちゃんて、ちゃんには饒舌になるよな」と呟いた。単に言いやすいからだと思いますけど。とは思ったけれど黙っておいた。
***
塘路湖を出発し、私たちは屈斜路湖へと北上した。そこでまたしてもアシリパさんの親戚のお世話になる。この旅の影の功労者は間違いなくアシリパさんの一族だ。彼らの助けがなければ、もっと過酷な旅になっていたことだろう。いくら身内とはいえ事前の連絡もなくこの大人数を二つ返事で受け入れてくれる懐の深さには感服させられる。
その親戚であるフチの13番目の妹の息子さんのチセに一泊させてもらい、翌日は近くにある温泉旅館へと向かった。情報収集も兼ねて、今日はここに宿泊することになる。私は部屋の隅に荷物を下ろしてふう、と息を吐いた。こんな広い部屋に泊まるのはなんだか久しぶりな気がする。それに温泉まで……。
「はどうする?」
急に杉元さんに振られ、私は首を傾げた。あんまさんをお願いしたとアシリパさんが付け足す。
「はい、お願いします。自分は先に温泉へ入ってきますので、後からで」
「……気を付けろよ」
「ありがとうございます。杉元さんも、お気をつけて」
杉元さんが私を心配そうに見送るので思わず苦笑した。彼があんな風に私を見る度、自分はそんなに頼りないだろうかと不安になる。強くはないかもしれないが、守ってもらうほど弱くはないつもりだ。背中を預けてもらえるのはいつになることか。
こぢんまりとした旅館だと思いきや大浴場は案外広かった。しかも貸し切り状態。私は広い露天風呂の真ん中を占領し、足と手を限界まで伸ばした。この温泉は傷跡に効くだろうか。杉元さんほどではないものの全身に残るいくつかの裂傷痕をなぞる。が、すぐに諦めた。今更傷跡を気にするだなんてどうかしている。
部屋に戻ると杉元さんはすでに居なかった。ちょうど入れ違いで、ほかの男衆も揃って大浴場へ向かったらしい。その静かな室内で私は杉元さんと同じようにあんまを受けた。
「気持ち良いか?」
「はい……ちょうど良い力加減です……寝ちゃいそう」
「寝てもいいぞ」
残念ながら寝落ちする前に終わってしまい、私たちは揃ってあんまさんを見送った。
「そうだ、お嬢ちゃん、夜のゲタの音に気をつけなさい」
「ゲタ?」
あんまさんによるとそれが盲目の盗賊だという。知らない者にはゲタに聞こえるがそれは舌を鳴らす音だ、とやってみせてくれた。カンッと軽い音は、たしかにゲタが鳴るのとよく似ている。これで周囲を見ているだなんて私にはあまりピンとこないけれど。
「……大変だ」
それを聞いたアシリパさんが血相を変えて身支度を始めたので、私はインカラマッさんと顔を見合わせた。
「アシリパさん、もしかして、心当たりでもあるんですか?」
「昨日、コタンであの音を聞いた」
「……え!?」
「あの時の聞いたことのない音は舌の音だったのか……私たちは屈斜路湖に来たときからずっと……見られていた!」
アシリパさんはいち早く駆けていった。私の方は湯上りでゆかたを着ていたこともあって準備に手間取ってしまう。武器を手にした頃にはアシリパさんもインカラマッさんもいなくなっていた。アシリパさんはともかく、インカラマッさんは大丈夫だろうか……私は彼女たちが盗賊とばったり出くわさないことを願いつつ玄関を目指す。外は真っ暗だ。その時暗闇にパン、と微かな銃声が聞こえた。尾形さんかと一瞬思ったが、小銃の音ではない。尾形さんは拳銃を持っていただろうか?陸軍脱走の際、装備一式を持ち出すほど用意周到な男だ、二十六年式も持っていても不思議はない。ただ、実際に使用しているのを見たことがないため確証がなかった。この場合、盗賊のものと考える方が自然だろう。
旅館の周囲を一通り探したが、杉元さんたちどころかアシリパさんやインカラマッさんも見当たらなかった。もうみんな散り散りに逃げてしまったようだ。……とすれば、逃げる先は森……か。こんな暗闇で勝ち目があるのだろうか。私はごくりと喉を鳴らしてから森へ足を踏み入れる。灯りを準備する暇がなかったのが悔やまれた。さきほどまで明るい室内にいたせいもあっていつも以上に暗く感じる。誰でもいいから、とにかく無事を確認しないと……なるべく物音を立てないよう慎重に歩を進めていると、一発の銃声が響いた。次いで別方向から何発も撃ち込まれる。なるほど、そっちが盗賊か。私は最初の銃声の方へ足を向けた。
「尾形さん?」
「……なんだ、か」
「なんだとはなんですか」
「静かにしろ、盗賊どもに聞こえる」
「……すみません」
真っ暗で姿はあまり見えないが、どうやら無事らしい。あまりにも普段通りの尾形さんに思わず安堵する。だが、近くに杉元さんたちはいないようだ。カンカン、とゲタのような舌を打つ音は次第に遠ざかっていく。とりあえず、危機は去ったらしい。だが私たちは未だ圧倒的に不利だった。暗闇では行動が制限される。普通なら敵側も同じ条件だが、今回は違う。夜明けまであとどれくらいだろう。
「あと4発ある」
「え?……ああ、銃の話ですか」
挿弾子一つ分とは心許ないが、尾形さんが味方だとなんとかなりそうな気がするから不思議だ。そこまで考えてから、敵の数がわからないのに楽観視するのはやめようと自分を戒める。
私と尾形さんは逃げることを優先すると決め、辛抱強く「ゲタの音」が遠ざかるのを待つ。十分離れた、と判断したところでゆっくりと行動を開始した。暗闇なうえに散り散りになってしまったから、もちろんほかの人たちがどの方向へ逃げたのかなど見当もつかないという。
「杉元が心配か?」
「……そりゃ、まあ。谷垣さんたちもみんな、はぐれてしまったんでしょう?」
「俺の心配はしてくれないのか?」
「さっきまではしてましたよ。でも、無事だったじゃないですか」
「……お前、まだ髪が濡れてるな」
「温泉から上がってすぐだったので。尾形さんこそ…………」
そこで私はようやく異変に気付く。
「……もしかして、服着てないんですか?」
「風呂場で襲われたからな」
「そんな状況でよく銃を持ち出せましたね」
「俺は他のやつらのように油断したりしない」
「……尾形さんの悪いところですよ」
「だが、正論だろう?」
要するに、銃を持って逃げられたのは尾形さんだけのようだ。言い方はアレだが彼の用心深さは見習うべきかもしれない。森の中を慎重に進みつつ、私は尾形さんから事のあらましを聞いた。敵側も銃を持っているのは都丹庵士だけ。尾形さん以外も服を着る間もなく逃げ出したため丸腰らしい。
しばらく森を彷徨っているうちに、周囲の暗闇が少しだけ薄くなったように感じた。それは、盗賊一味の男と思われる背中が見えたことで気付いた。尾形さんが上半身を撃ち抜く。
「さすがですね」
私は素直に感心した。銃弾に体を貫かれた男が、そのまま前方へ倒れるのが見える。
「追うぞ」
私の感想には興味を示さず、尾形さんが歩き出す。彼は褒められても嬉しくない人なのだろうか。自分だったら褒められて伸びる方なんだけどなあ、なんて思いながら彼の背中に続いた。
瞼の裏~の話は蟲師4話からちょっと拝借。
当時、2枚目の瞼を頑張って閉じようとしていたのは私です。