「、ちょっといいか」
海岸からコタンへ戻る少し手前で杉元さんが言った。その厳しい顔付きに私は息を呑む。さきほどの件に関係あることだろう、とすぐに合点がいった。彼は自分やアシリパさんに危害を加える人間は容赦なく排除する男だ。たとえ数秒前まで一緒に笑い合っていたとしても、ここまでずっと旅をしてきた同行者だとしても、一度手を出されたらそれは等しく彼の敵なのだ。直接危害を加えていないにしても少しでも疑いのある人物には決して心を許さない。そういった意味でいえば私の立場はなんとも微妙なものだった。金塊の話を聞いて現れた元陸軍関係者、というだけで警戒するには十分な理由だ。私としてもそれは当然であるという意識があったし、海岸での一件では自分も間違いなくインカラマッさんやキロランケさんたちと同様の扱いだと思っていた。いや、実際そうなのだろう。だからこそ今こうして呼び出しを受けているわけで。不安そうに見守るアシリパさんへ「大丈夫だから」と残して杉元さんは元来た方へ引き返した。私も頷いて後に続く。
「さっきのことですよね?」
アシリパさんたちから少し離れたところまで来ると、先手を打って切り出す。私自身まだ飲み込めていない部分もあるから、そんな曖昧な言い方しかできなかった。
「……俺は、あんたを疑いたくない」
杉元さんは表情を変えない。てっきり詰問されるとばかり思っていた私は少々面食らった。少なくとも杉元さんは最初私に対して警戒心を持っていたはずなのだけど。疑いたくないなんて……一体どんな心境の変化があったのだろうか。さきほどの一言が私の胸の中でじんわりと温かく響いた。
「だから、話してくれ」
「……話と言っても……」
「キロランケはあんたを見たことがあると言ってた。尾形も……を知ってた。なあ、これは偶然なのか?本当には第二師団だったのか?」
所属を聞かれたとき、私はその人とは会ってなさそうな師団を答える。つまり一貫性などなかった。私は日露戦争に於いて第一軍として戦った。しかし第三軍だった第七師団と接点が全くないわけではないから、以前キロランケさんから言われたようにどこかで顔を見られている可能性もゼロではない。本当に第二師団だったのか?と聞かれ答えに窮したが、一体何故隠そうとしているのか最近は自分でもわからなくなっていた。少し前までは、単純に説明が面倒でその話題を避けていたように思う。女兵士に関しての認知度が世間ではまだ限りなく低いからだ。もし元将校などと知られたら根掘り葉掘り聞かれるに違いない。青春を捧げた陸軍時代の記憶はまだ私にとって誰にでも気軽に語れる思い出ではなかった。
何度も息を吸いこみ、そのたびに言葉が詰まっては息だけを小さく吐き出す。本当のことを話したら、杉元さんはどう思うだろう。そんな漠然とした不安が渦巻いて、うまく言葉が出てこない。
「前から思ってたんだけど」
顎に手を当てた杉元さんが張りつめていた緊張の糸を簡単に切ってしまった。なにか言わなきゃ、とそればかり考えていた私は彼の台詞で色々なものが全部吹き飛んで、ただ杉元さんを見上げる。
「は深刻に考えすぎなんだよ。もっと他の連中みたくこう……気楽に生きた方がいいんじゃないか?俺だって別にあんたが実は鶴見中尉の手下でしたとか言わない限り大抵のことは受け入れるつもりだし」
「……最近は、そうしてるつもりなんですけど」
「全然足りねえよ。白石なんか……いや、あいつはだめだ。が白石みたいになったらなんて、考えるだけで恐ろしいな」
あれは真似したくてもできるもんじゃないと思うけど。白石さんのは最早一種の才能だ。
「とにかく……えーっと……なんだっけ?」
やっぱり普段の杉元さんはどこか抜けている。気が抜けてつい笑いを零すと、杉元さんも静かに笑った。私はこの優しい笑顔が好きだ。自身の抱える辛さや悲しみなど一切他人に見せない芯の強さが好きだ。私はその笑顔の源を知っている。彼女を守ることが杉元さんの笑顔を守ることに繋がるなら、それは自分ができる彼への唯一の恩返しにもなるような気がした。私はもう一度深呼吸してから再び杉元さんへ顔を向ける。
「陸軍で女の兵士を試験的に採用しているのはご存知ですか?」
杉元さんは躊躇いがちに首を横に振った。まあ、今までの反応からしてここまでは想定内だ。大丈夫、受け入れると言ってくれたのだから。私は声が震えないよう、お腹に力を入れた。
「私はその一人です。元近衛師団で最終階級は陸軍大尉、終戦後に事情があって退役しました」
「……噂だけ聞いたことがあるな。女みたいな将校がいるって……」
「まあ、それが私かどうかはわかりませんけど……。退役したあとに小樽へ渡りました。杉元さんたちと知り合うまでは、そこで用心棒をしていたんです」
いざ言葉にしてしまうとなんだか呆気なく感じる。実際、私は自分でも気味が悪いほど落ち着いていた。直前まであんなに怖がっていたのが嘘みたいである。たとえるなら、誰かの言伝をしているような感じだった。ただし真実を打ち明けたとして、杉元さんが信じるかどうかは別問題だ。私は家族にはなにも告げずに家を出てしまったので、私の足跡を知る者は誰もいない。言ってしまえば入れ墨の囚人たちと同じようなものである。私の言葉が信用に値するかどうか、それは杉元さん次第だった。目の前の杉元さんは何事か考えている様子でじっと私を見ている。見定められている、と思った。蕎麦屋で初めて会話したあの時のように、警戒し、探るような視線だった。ただし当時ほど鋭いものではない……気がする。自惚れではないと思いたい。目を逸らしたらやましいことがあると思われそうで私の方も杉元さんを真っ直ぐ見返した。彼の顔に残った大きな傷は、今でも私の心をざわつかせる。もし杉元さんが私の部下だったとしたら、やっぱり私を恨むだろうか?……なんて、考えても仕方のないことだけど。
「は、嘘つかないもんな……」
「……あの、非常に言いにくいんですけど、第二師団って嘘ついてましたよ、私」
「あ…………そうだったな。いや、でも、理由があったんだろ?現役の頃のことはあんまり話したくなさそうだったし」
「ええ、まあ……」
「もう一つだけ聞いていい?」
「なんでしょう」
「……どうして尾形と知り合いだったんだ?」
「いや、知り合いじゃなくて、向こうが……ええと、鶴見中尉が私を一方的に知ってて、だから尾形さんも私を知ってただけですよ。私は尾形さんのこと知りませんでした」
「鶴見中尉が?」
「女の兵士は珍獣みたいなものですから、目立つんですよ」
肩を竦めた私に杉元さんはそれ以上追及してこなかった。言いたいことが伝わったのか、私の気持ちを察してくれたのか。一呼吸おいて杉元さんは私の目の前に右手を差し出した。
「俺はを信じる」
「……はい」
私も彼の手を取って、握手を交わした。皮膚の固くなった杉元さんの掌から体温が伝ってくる。
「尾形のやつ、知り合いでもないくせにあんな馴れ馴れしくしてたのかよ。……なんか腹立ってきた」
「杉元さんが先に怒っちゃったら、私の出る幕ないじゃないですか」
「……またあいつに過保護だとか子離れできてないとか嫌味言われるな……」
「そんなこと言われたんですか?」
驚いて聞き返すと、杉元さんは「しまった」みたいな顔で口を押えた。まったく、尾形さんにも困ったものだ。ただ正直なところ私は尾形さんの悪く言えば馴れ馴れしい、良く言えば気さくなあの態度が嫌ではなかった。元陸軍将校と知っていながら特別遜るでもなく、一人の人間として対等に接してくれる。長年友人と呼べる存在のいない孤独感を味わってきた私にとってこれほど嬉しいことはないのだ。……杉元さんには内緒にしておこう。