最果ての熱砂33

 杉元さんたちがみんな出払っている間にそれは起こった。

!あれ見て!空が変なんだ!」

 出掛けていたはずのチカパシくんがリュウとともに走ってくる。谷垣さんたちは一緒じゃないのだろうか?という疑問を一旦脇に押しやってチカパシくんの指さす方角の空を見上げると、黒い雲が浮かんでいた。それはまばたきするごとに尋常じゃない速さで大きくなっていく。雲じゃない?そう思うと同時にぞくりと背筋が寒くなり、ほとんど反射的にチカパシくんの腕を引っ張って家の中へと入った。

「あれ、なんだろう?」
「あれは……」

 言いかけたとき、突然周囲が騒々しくなった。ザザザザ、とおびただしい数のなにかが通り過ぎていく。仲間の数匹が私たちの籠城するチセにも入り込んでいた。思ったとおり、虫である。蝗害というのは話では聞いていて知識はあるが、実際に遭遇したのは初めてだった。

「虫?」
「飛蝗ですね」
「こんなにたくさん、俺初めて見た」
「私もです……」

 チカパシくんは右腕でリュウをしっかりと抱きしめ、左手で私の着物をぎゅっと握っていた。かく言う私も虫が大の苦手というわけではないものの、それでもこんなに大勢で押し寄せられてはたまったもんじゃない。一人きりのときじゃなくて良かったと心の底から安堵する。アシリパさんたちは大丈夫だろうか?たしか、アシリパさんはマンボウを獲りに行くといって朝早くから出かけた……と杉元さんから聞いた。杉元さんが着いていかないなんて珍しいと思ったがどうやら眠かったらしい。アシリパさんならこんなときの対処法も心得ているのだろうか?とにかく今は、みんなの無事を祈るしかない。

「落ち着いたら、みんなを探しに行きましょうか」
「うん。そうだ、ハマナス食べる?みんなでたくさん獲ったんだよ。も一緒に来ればよかったのに」
「私もほら、野草を獲ってきましたよ」

 みんなが出かけている間、私はアシリパさんの親戚のおばあちゃんの手伝いをしていた。言葉はわからないので見本片手に目的の野草を探すのだが、獲り方が違うとかそもそもこれじゃないとか、とにかく大変だったのである。チカパシくんから分けてもらったハマナスは想像以上にすっぱくて私は顔を顰めた。でもすごく栄養があるらしいので慣れないことをして疲れている私にはありがたい。
 そのあとも2人と1匹で固まって暫くじっとしていたが、チカパシくんはいつの間にかリュウをまくらにして眠ってしまっていた。外も暗くなっている。バッタの大群による薄暗さではなく、本物の夜が来ていた。杉元さんがいない夜は随分久しぶりな気がする。そう思ってからはっとして頭を振った。以前より精神的な余裕ができたせいだろうか、最近杉元さんのことが頭をちらつくことが多い。怒っているのかなとか、また一人で抱え込もうとしているんじゃないかとか、そんな、とりとめもないことばかりだ。そして今は彼の安否を気にしている私がいる。もちろんアシリパさんや他のみんなも心配だ。けれど一番最初に浮かんだのは杉元さんの名前だった。たぶん私とアシリパさんは同じ想いを抱えているのだろう。そう確信したのはあの丹頂鶴の一件だったが、気持ちに気付いて次はどうするのか、それが問題だ。以前の私なら間違いなく自分の気持ちに蓋をして見ないふりをしていただろう。しかし杉元さんたちと出会って旅をする中で、私は新しい選択ができるようになっていた。彼らはみんな、自分で考えて自分の意思で決断し行動している。どうして今まで気づかなかったのだろう。いや、気付こうとしなかった、が正しいのかもしれない。父のため、母のため、と呪いをかけていたのは私自身だったのだ。思うまま生きる杉元さんたちを見ていると、なんだか今までの自分がばからしく感じた。私もあんなふうにできるだろうか。自分のために生きてもいいのだろうか。この道中何度もそう思っては挫折してきた原因は自分でもよくわかっている。私は背後を振り返った。そこには私の犠牲となった戦友たちが佇んでいる。たとえ幻覚だと言われても私にははっきり見えているのだ。許しを請うように恐る恐る彼らの顔を覗き込んだが、その表情は軍帽の陰になっていて窺うことはできない。ふと父を思い出し探してみても、暗い軍列の中にその姿は見当たらなかった。




 考え事をしているうちにバッタの大群はすっかり通り過ぎてしまい、鳥の声と仄かな明るさが夜明けを告げていた。静かに……とはいかなかったがゆっくりと自分の気持ちを整理できたことで気分は心なしかすっきりしている。未だ小さく寝息を立てるチカパシくんを起こさないように気を付けながらそっと姿勢を変えると、気配に気づいたリュウがぱっとこちらに顔を向けた。リュウもずっと起きてたのかな、と思いながら頭を撫でる。杉元さんとはあまり相性が良くないようだけど、こうして大人しく撫でさせてくれるあたり、私への敵対心はないらしい。チカパシくんが起きたらみんなを探しに行こう。恐らく命を落とすようなことはないと思いたいけど……。

「……もう朝?」
「あ、起こしちゃいましたか?」
「ううん…………虫は?」
「もう通り過ぎたみたいですよ」
「よかった~!ねえ、も怖かった?」
「怖かったですよ」

 外を確認するとまだ遠くの空がぼんやり白んでいるだけで思ったほど明るくない。別のチセに避難していたおばあちゃんが帰ってきて私たちの無事を確かめたあと、村の被害状況を見てくるといってまた忙しなく出て行った。私とチカパシくん、それとリュウも杉元さんたちの無事を確認するために村を出る。チカパシくんとリュウは谷垣さんと別れた場所を見に行くことになり、私はその反対側に向かう。土地勘がないからあまり遠くへは行かないようにしよう、と決めて、先日ウミガメ漁を手伝った海岸を目指すことにした。ほどなくして海岸の方に細い煙が上っていることに気付いた。おそらく杉元さんたちの誰かだろう。なんとなくそう直感して煙を目指して歩いていく。

?」

 杉元さんの声だった。たった半日離れていただけなのにそれが私の耳に懐かしく響く。ぱっと振り返ると、杉元さんたちのほかにキロランケさんまで一緒だった。みんなの無事を確認して私はほっと胸を撫で下ろす。

「よかった~、ちゃんも無事だったみたいだね」
「おかげさまで……それにしても、キロランケさんも合流してたとは思いませんでした」
「ああ、偶然あっちでこいつらと出くわしてな……」
「あ、じゃあみんなずっと一緒だったんですね」
「……まあな」

 何故全員視線を明後日の方へ逸らしているんだろう。喧嘩でもしたのだろうかと首を傾げつつ、アシリパさんを探すというので私も同行することにした。あの焚火がそうかもしれない。

「谷垣さんとインカラマッさんは?」
「あ…………忘れてた。谷垣はまだ寝てるかも。インカラマッはわからないけど」
「えぇ……一人だけ置いてきちゃったんですか」
「まあそのうち起きてくるだろ」

 そんなやり取りをしていた直後、向かっていた方に人影を発見した。それはまさに今噂していた谷垣さんに、アシリパさん、インカラマッさんだった。一見したところ怪我などはしていないようだ。しかしチカパシくんの姿が見当たらない。どうやら行き違いになってしまったらしい。

「キロランケニシパが私の父を殺したのか?」
「え?」

 アシリパさんが唐突にそう問い詰めた。本当に心当たりがないのか、とぼけているだけなのか……キロランケさんはわけがわからないと言ったように困惑している。そんなことはお構いなしに今度はインカラマッさんが馬券に付いた指紋が証拠だ、と口を挟んだ。キロランケさんがアシリパさんの父を殺した、と吹き込んだのはどうやらインカラマッさんらしい。でもどうして、インカラマッさんがその証拠を握っているのだろう?その疑問は尾形さんによって解消された。鶴見中尉と通じている、と言って小銃を躊躇いなくインカラマッさんへ向けたのだ。アイヌの殺害現場で遺留品の回収をしたのが鶴見中尉で、その証拠の指紋の出どころも鶴見中尉……。となると、嘘の情報を掴まされているということはないだろうか。インカラマッさんは尾形さんの言葉を否定しないどころか「鶴見中尉を利用しただけ」と言い放ったが、それは彼女側だけを見たときの話である。鶴見中尉もこうなることを予想してインカラマッさんを利用しているとしたら……。

「どっちだ?どっちの話が本当なんだ?誰が嘘をついてるんだ?」

 私もなんだか混乱してきた。白石さんの疑問に答えるとするなら、どちらも本当かもしれないし、全員嘘をついている可能性だってある。私たちには圧倒的に情報が不足していて、両者の話を吟味することもできないのだ。

「白石、この中で『監獄にいたのっぺら坊』と会ってるのはお前だけだよな?」
「本当にアシリパさんと同じ青い目だったのか?」
「え?俺は一度も青い目なんて言ってねえぞ」

 はて、そうだっただろうかと思案してみたがさっぱり思い出せない。しかし私も杉元さんと同様、のっぺら坊が「青い目」というのはどこかで耳にした覚えがあった。可能性があるとすればやはり囚人の誰かだろう。白石さんでないとすれば、あとは土方さん、牛山さん、家永さんだが、白石さんの証言からすれば有力なのは土方さんだ。彼は刺青の囚人たちの中でも一番のっぺら坊に近い存在らしい。私は白石さんを信じたい気持ちと信じてもいいのだろうかという不安が入り混じっていることに気付く。では尾形さんは?脱走兵だ、というのは尾形さんの自称である。それを確かめる術など私たちにはないのだ。……いや、無暗に人を疑うのはやめよう。そう思ってしまうことこそ鶴見中尉の思うつぼだ。わかっていても心の底に渦巻いた小さな疑念はずしりとそこに止まり続け、彼の掌で踊らされているのを嫌でも実感させられた。