最果ての熱砂32

「尾形さんはお酒飲まないんですか?」
「いらん」
「下戸?」
「さあな」

 てっきり不機嫌になるかと思っていた私はそのそっけない返事に少し拍子抜けした。これは私の推測だが彼は飲めないわけではないのだろう。ただ飲酒というのは少なからず判断力を鈍らせるものなので狙撃に絶対の自信を持つ尾形さんにとっては余計なものなのかもしれない。そういえば前に自分は脱走兵と言っていたような気がするし、お酒飲んで油断している場合じゃないってことだろうか。しかし尾形さんのことだから酔っぱらっていても素面にしか見えない、なーんてこともありえるなと苦笑していると、隣の尾形さんから「気色悪い」と暴言が飛んできた。
 谷垣さんの疑いも晴れ、私たちはコタンでの宴会に参加していた。アイヌの男たちは「酒飲んで仲直りしようぜ!」と大笑いしながら杉元さんや谷垣さんにアイヌの酒を振る舞っている。さきほどまで敵対していた相手とは思えないほどの歓待ぶりだ。もちろん私や尾形さんも酒を出されたが、二人そろって辞退すると代わりにお茶を出してくれた。どんちゃん騒ぎの中、私と尾形さんは一歩引いた位置で場違いなほどひっそりとお茶を啜る。

「今、ここに鶴見中尉の手下が乗りこんできたら面白いと思わんか?」
「縁起でもないこと言わないでください……」
「鶴見中尉はありとあらゆる可能性を潰してくる。ここももう割れててもおかしくないぜ」

 さすがに今のは尾形さん渾身の冗談だと思うが、た、たしかに……と頷いてしまうような謎の説得力があった。鶴見中尉についてはあまり自分の常識で考えない方がいいかもしれないというのは当初から感じている。まあなにをしでかすかわからないという点でいえばこちら側の面子もいい勝負ではあるけど。

「でもそれじゃあ尾形さんも捕まっちゃうじゃないですか。脱走兵なんでしょ?」
「いざとなったらあいつらを囮にすればいい」
「うわあ」
「お前も一緒に来るか?」
「えっ」

 意外にも尾形さんの顔にはあの嫌な笑みはなく、真剣そのものだった。いや、もしかしたら私の反応を伺って真顔の下ではにやにやと笑っているのかもしれない。……杉元さんほどではないが私も尾形さんをあまり信用していないようだとこの時ようやく自覚した。普段はところ構わずからかってくるくせに、慣れ合うことは極端に避けたがっている。こちらから近づこうとしても霧みたいに掴みどころのないような男をどうして信用できるだろうか?真意をはかりかねて答えられず、私と尾形さんはしばらくの間見つめ合った。ええと、どうしよう……と困惑していたらアシリパさんが「ヘビを触った手が臭くないか確認してほしい」とやってきた。どうやら全員に確認しているらしいのだが、みんなが臭くないと断言しているにも関わらず信じられない様子で入念に何度も何度も確かめている。私も確認したがもちろん臭いなど残っていなかった。そこまで苦手な生き物を杉元さんのために決死の覚悟で鷲掴みするとはなんて健気な。

「アシリパ、お前に大事な話が……」

 さきほどまでお酒をしこたま飲まされていた谷垣さんが急にそう切り出した。いろいろあって忘れていたが、そういえば谷垣さんたちが小樽からわざわざアシリパさんを追ってきた理由をまだ聞いていなかったんだった。
 谷垣さんの話を要約すると、フチがアシリパさんの身を案じるあまり、心労で寝込んでしまっているらしい。インカラマッさんの不吉な占いと夢が原因だという。カムイが私たちに夢を見せている……か。もしそうだとしたらカムイは私に一体何を伝えたいのだろう?少なくとも自分の見た夢からは私ひとりのうのうと生き残ったことに対する非難や叱責といったものしか感じなかった。

 お前が死ねばよかったのに。

 誰のものなのかわからない、温度のない声が脳裏に蘇った。カムイにすら死を望まれているのならきっとそうするべきなのだろう、と投げやりに考える。だけど何故か私は、いつか杉元さんに言われた言葉を思い出してしまうのだ。私が死んだら悲しんでくれる……かもしれない人たちがいる。それは今まで想像もしなかったことで、実際面と向かって言われたあとも実感がわかなかった。もしかしたらただ私を励ますために咄嗟に出た台詞だったのかも……なんて疑っていたりもするのだけど、私をおだてても杉元さんには何の得もないはず。……信じる理由が消去法というのはなんとも悲しい話だ。
 アシリパさんは一度コタンに戻るという杉元さんの提案を断った。やっぱりこの子は強い。アシリパさんだって本心は今すぐフチに会いに行きたいはずなのに、泣き言ひとつ言わないなんて……ともすれば自分の方がよっぽど子供なんじゃないかとさえ思ってしまう。子供扱いするな、というのは正直無理な相談だが彼女が同年代の中では飛びぬけて大人びていて、しっかりしているのはたしかだ。思えば私はいつも誰かのために生きていて、他責的な思考からも抜け出せずにいた。だから自分の人生を自分での力切り開いていこうとするアシリパさんがこんなに眩しく見えるのだろう。こんな卑怯な生き方をしているのはたぶん、この中で私だけだ。なんだかここに並んでいるのが恥ずかしい気がしてきて、私はそっと顔を伏せた。

、ほら、ここ空いてるぜ」
「あ、ありがとうございます」

 折り重なるように寝ているアイヌの男たちを力ずくで押しのけて私たちの寝床を確保した杉元さんに手招きされた。足は伸ばせそうにないけど、まあ屋根のあるところで眠れるだけありがたい。それに、赤ちゃんのように小さく丸くなっている(ように努力している)谷垣さんに比べたら可愛いものだ。アシリパさんはすでに夢の中で、その寝顔にはさきほどの勇ましさは残っておらず年相応のものに変わっていた。父親に関わることとはいえ、こんな血生臭い騒動なんてなければ今もあの小樽にあるコタンで狩りをして美味しいものを食べて平穏に暮らしていたのかと思うと少し不憫な気がする。金塊が見つかったらまた落ち着いてすごせる日々が戻ってくるといいのだけどと、他人事ながら願わずにはいられない。


「はいはい」

 尾形さんの声に振り返るとちょいちょいと指で呼ばれて、私はなんの疑問も持たず彼の方へにじり寄る。俺と場所変われとかそんなんだろうという予想に反して、尾形さんはおもむろに私の膝へと頭を置いたので素頓狂な声を出してしまった。慌てて周囲を確認したが起こしてしまった様子はなくほっと胸を撫で下ろす。

「……な、んですかちょっと……私もう寝たいんですけど」
「お前らの望み通り谷垣源次郎を助けてやったんだ、少しくらいご褒美を貰ったってバチは当たらんだろ?」
「どうして私が」
「俺にも選ぶ権利くらいある」
「私にはないんですね……」
「……」
「え……尾形さんまさかこのまま寝るつもりじゃないですよね?流石に一晩は無理ですよ」
「そうしたいところなんだが、お前の保護者に殺されそうだからな。今日は勘弁しといてやるよ」

 だから杉元さんは私の保護者なんかじゃないというのに……。ちらっと杉元さんの方を見たらめちゃくちゃ怖い顔をしていたのでたぶんうるさかったのだと思う。早く寝たいのは本当だったので私はぐいぐいと無理やり尾形さんを押しのけて「おやすみなさい!」と一方的に宣言してしまうことにした。頭上で二人が小競り合いしているような……いやいや私はなにも聞こえない。

 翌朝も二人は喧嘩していた。いやこれは喧嘩なのか?尾形さんは杉元さんが銃を壊したことに絡めて自分が三八式を持つことの正当性を嫌味たっぷりに主張していた。……まあいつものことか。などと思ってしまうくらいには慣れ切っていたので私は二人を放置して昨日盛大に飲み散らかした食器やらの片づけを手伝う。アシリパさんたちの支度が整ったらすぐに出発だ。途中ではぐれた白石さんたちとも合流しなければならない。

「谷垣はこれからどうするんだ?」
「アシリパを無事にフチの許へ帰す。それが俺の役目だ」

 谷垣さんて暫く見ないうちになんか雰囲気変わったなあ、とどこか晴れ晴れしい顔の彼を見上げる。憑き物が落ちたというか、悟りを啓いたというか。私が知らないだけでもしかしたらこっちが本来の谷垣さんなのかもしれないけど。アシリパさんをフチのもとへ帰すことが役目、ということは谷垣さんもこの旅についてくるのだろう。私たちもそれに依存はなかった。アシリパさんを無事にコタンへ帰したいというのは私も同じだ。出発前に食べて行け、とキラウシさんがヒグマの肉で作ったオハウを出してくれたが、ふと私の脳裏に姉畑支遁の顔が過ぎる。杉元さんたちも同じだったのか、急いでいるといって結局誰も手を付けないままコタンを発った。





 白石さんたちとの合流地点である釧路の街はかなり大きくて栄えていた。どうも釧路湿原の印象にひっぱられていたせいか、そこまでにぎやかな街だとは想像していなかったので意表をつかれたように感じる。その大きな通りを歩いていると見慣れた坊主頭が目に留まった。シライシさんの傍にはもちろんインカラマッさんとチカパシくんも一緒だ。私たちの……というより谷垣さんの姿を見たインカラマッさんがぱっと表情を明るくしたのがすぐにわかり、二人の間にただならぬ雰囲気を感じ取った外野がやんややんやと囃し立てた。アシリパさんまで「お前ら結婚しろッ!」などと指をさして悪い顔をしている。谷垣さんの雰囲気が以前と変わったのはインカラマッさんの影響もあるのかもしれない。はっきり言ってインカラマッさんを全面的に信用できるかと言われたら残念ながら肯定はできないのだけど、谷垣さんと接する彼女に嘘はないような気がする。……まあこれもただの憶測だ。インカラマッさんも天涯孤独の身で子供の頃からずっと一人だったというから、相当したたかでないとやってこれなかったのだろう。そういったしがらみを全部なしにすれば、二人はとてもお似合いだと思う。
 海岸に出ると、アシリパさんの親戚からウミガメの漁に誘われた。それを聞いてウミガメって美味しいのかな、などと考えてしまうようになった自分に苦笑いする。きっとアシリパさんに問いかけたら「脳みそに塩ふって食べると美味いぞ」などと返されることだろう。アシリパさんは海のカムイも丁寧に送ってこの釧路を立ち去りたいというので、最初は乗り気じゃなかった杉元さんたちも手伝うことになった。しかし舟の大きさから見て全員は乗れなさそうだ。私は「留守番してますね」と早々に手を上げると波打ち際から少し離れた場所まで移動して砂浜に無造作に置かれた木の幹に腰を下ろそうとしたが、何故か杉元さんもこちらへ歩いてくるのが目に入り頭に疑問符を浮かべる。

「どうしたんですか?」
「……大したことじゃないんだけど……」
「安心しろよ杉元、の面倒はお前の代わりに俺が見ててやる」

 さっきまで内陸の様子を観察していたはずの尾形さんが急に現れて私の肩に手を置いた。本当にこの人は神出鬼没だ。

「……やめてください、子供じゃあるまいし」
「てめえに頼むつもりなんか更更ねえよ」
「いや否定してほしいのはそこじゃないんですけど」

 私を挟んで喧嘩するのはやめて頂きたい。そこはかとなく漂うのけ者感に心が折れそうになりつつ、私は尾形さんの手をゆっくり振り払った。そうしたら今度は杉元さんにがしっと両肩を掴まれる。

「尾形にはあんまり近づくなよ、何をしでかすかわかったもんじゃないから」
「そうですけど、ほら、尾形さんて面白がっていちいち首つっこんでくるじゃないですか。今みたいに」
「本人の前で随分な言い草だな?」
「でも本当のことでしょ?」
「……おい尾形、に手出したら承知しねえからな」
「どう承知しないのかぜひとも教えてほしいもんだな」
「ま、まあまあ、私は大丈夫ですから、早く行ってください。アシリパさんたちが待ちくたびれちゃいますよ」

 杉元さんの背中をぐいぐい押して送り出したあと、やれやれ、と息を吐いた。その後ろで尾形さんが堪えきれずに短く笑ったのが聞こえてまたため息を吐く。実際のところ(二人の喧嘩を仲裁するという意味で)面倒を見ているのは私の方な気がしてならないのだが、その火種が自分であることは紛れもない事実なのでこの一行に尾形さんがいる限り諍いは続くのだろう。