2日目は朝から雨が降っていた。視界はぼんやりと白く、周囲の音も雨音にかき消されるせいで捜索は難航していた。全くもってツイてない。この場合ツイてないというのは谷垣さんが、である。谷垣さんの印象は出会った当初から今まで変わらず受難者といった風だった。そして捜索範囲がこの広大な湿原というのも運が悪いというかなんというか……。妙にやわらかい足元は山道と同じくらい気を遣わなくてはならないし、湿原を大きく蛇行する川も厄介だ。などと不平不満を零していても仕方がないので、傘にしたフキの葉の陰から必死に目を凝らした。……うーん、なにも見えない。
「雨止んだけどもう日が暮れるぜ。今日も見つからなかったな」
夕陽が雨粒に反射して、その眩しさに私は目を細める。綺麗だと感じると同時に期限が迫っていることに焦りも感じていた。姉畑支遁は今どこにいるのだろう。こうしている間にも新たな犠牲が出るのではないか?それとも彼がヒグマかなにかに殺されるのが先か……。綯い交ぜになった感情でつい眉間に皺を寄せていたら振り返った杉元さんと目が合った。ちょうど夕陽を背に立っている杉元さんも雨と光の効果できらきらと輝いて見えて一瞬息を呑む。私が口を開く前に杉元さんも軍帽のつばを少し持ち上げて同じ方向を見た。
「綺麗だなあ」
妙にドギマギして相槌も打てずにいると、続けて「こんな綺麗な夕焼けの中で必死こいて探しているのが変態の囚人ってのがなあ」とぼやくのが聞こえて私は短く笑った。金塊探しが終わったら、またこんな綺麗な景色を今度はゆっくりと眺めたいものだ。そう考えながら杉元さんの後頭部へ視線を移す。……谷垣さんの命が掛かっているときに一体何を考えているんだろう。私は心の中で反省してから夕陽に背を向けた。
「、そろそろ起きろ」
小さな手が自分の体を揺すっている感覚に目を開けると、思った通りアシリパさんが横にいて私を起こそうとしていた。杉元さんもすでに起きている。どうやら寝坊してしまったようだ。
「すみません、起きるのが遅くなってしまって」
「疲れてるのか?」
「いえ、そんなことはないと思います」
「……もうひと頑張りして、姉畑支遁を見つけたら美味いものでも食べよう」
気を遣わせてしまったかなあと反省しつつ曖昧に頷き、さきほどまで見ていた夢を思い出す。体質のせいなのか幼いころから毎日のように夢を見ていた。それが良い夢ならばなにもいうことはないのだけれど、私の場合ほとんどが悪夢である。母がゆっくりと死んでいく夢、人間ではないなにかに追われる夢……繰り返し見る悪夢たちが嫌でたまらなくて、眠りたくないと思った時期もあった。大人になって若干頻度は減ったが、質は悪くなる一方だ。私は戦争の中にいて、仲間が死んでいくのをただそこで見ているだけ。仲間たちは「お前が死ねばよかったのに」と恨み言を残して地面へと崩れて消えていく……夢から覚めても彼らの言葉がこびりついたままで、頭の中でどんどん膨らんでいく。何故私は未だにのうのうと生きているのだろうか。こんなに苦しいなら彼らの言う通り死んでしまえばよかったのに。そうやって投げやりに生きているくせに、自殺する度胸もなく今日まできてしまった。
「ちょっと顔色悪いな」
「いつも通りですよ」
「なお悪いだろ、それ」
「あ、はは……」
軍隊暮らしが長いくせに日焼けすることもなく、青白い不健康な顔色なのは昔からである。それで同期にからかわれていたのは言うまでもないが、心配されることは珍しかったので反応に困った私はとりあえず笑って誤魔化すことにした。
「もっと太陽の光を浴びて運動した方がいいんじゃないか?なんなら俺も付き合うし」
「私も、滋養のあるものをたくさん作ろう」
そ、そこまで心配されるほど真っ青だったのだろうか?自分のことながら不安になってきた。谷垣さんの捜索そっちのけ、とまではいかないものの二人は私の健康増進についてあーでもないこーでもないと意見を交わしながら湿原を進む。午前中はまだ余裕を感じさせる雰囲気だったが、太陽が真上に来る頃にはやはり焦りが見え始めた。姉畑支遁は谷垣さんの銃を持っている。それを使ってくれれば手掛かりになるけれど、単発銃であることと彼の目的を考えると使う可能性は限りなく低いと思われた。
「私が姉畑支遁の捜索を続けるので、杉元さんたちは一旦戻ってください」
「何言ってんだよ。あいつは銃を持ってるんだぞ。あんた一人でどうにかできるのか?」
「……じゃ、じゃあ、私が谷垣さんのところへ行きます」
「それこそ一人じゃ無理だろ」
「谷垣は尾形が助けてくれる」
「あんなの一番信じちゃダメな奴だよ」
「でも他に方法は……」
三人の意見がまとまらず立ち止まっていると背後から草を揺らす音がして杉元さんが銃を向ける。先日から私たちの後を付けていた動物だろうか?と警戒していたが、その正体は二瓶鉄造の愛犬リュウだとすぐにわかった。二瓶鉄造の忘れ形見を持った谷垣さんを追いかけて遠路はるばる旅をしてきたリュウに感激した杉元さんが涙を浮かべて撫でようとするもほどなく手を噛まれ「痛えなクソ犬ッ!」と叫んだ。これが犬猿の仲というやつか……。リュウの中で杉元さんはまだ主人の敵という立ち位置なのだろう。しかしリュウのおかげで漸く一筋の光が見えた。姉畑支遁の痕跡を辿るため、私たちはオス鹿の死骸を発見した場所まで再び戻る。不運なことに雨が降ってしまったから臭いが残っている確証はないが、今はこれに賭けるしかない。
「間に合うか厳しいな……」
「ギリギリまで粘ってみよう。いざとなったら尾形が……」
杉元さんは尾形さんのことを一切信用していないが、アシリパさんはそうではないらしい。尾形さんは表情を殆ど変えないから何を考えているのかさっぱりわからないし、どうも谷垣さんとの間でなにか確執があるようだから全面的に信用すべきではないのかもしれない。それでも今頼れるのは彼だけだと、アシリパさんもわかっているのだろう。杉元さんはそれを認めたくないのかもしれないが。
「……アシリパさん、もし俺が谷垣みたいな状況になったら、尾形だけには託さないでくれよ?」
「杉元になにかあったら、私が必ず助ける」
もし杉元さんが囚われの身になったら武力に物を言わせて自力でなんとかできそうだと思わなくもないが。……あ、そういえば小樽で一回あったな。あれは一応手助けしたことになるのだろうか?それはともかくとして、アシリパさんの力強い台詞を聞いて私の心は少しざわついていた。彼女の気持ちはもしかしなくても……私と同じなのだ。当の杉元さんはそれに気付いていないようだが、先日の鶴の一件で見せた態度からも明白である。私とアシリパさんじゃお話にもならないのは勿論わかっていた。私では杉元さんになにもしてあげられない。アシリパさんのように胸を張って私が必ず助けるとも言えなかった。こんな私じゃ選ばれるはずがないのだ。複雑な心境で二人のやり取りを見守っているとリュウがなにかに反応して走り出した。
「俺たちも追いかけよう」
「あ、はい」
「……まだ調子悪いみたいだな」
「ち、違います」
「そうか?具合悪いなら遠慮しないで言えよ」
杉元さんの手が私の頭上に影を作った。咄嗟に身を引くと、宙に浮いた彼の手はそのまま動きを止め、私も杉元さんも恐らく気まずさからか沈黙する。
「……いや、これは……その、だな……」
「……早く行きましょう」
アシリパさんとリュウが走っていった方へ駆けだすと少し遅れて杉元さんも追い付いてきた。最近自分の身になにが起こっているのか理解できない。いや、正確には理解はできている。できているのだが、本当に現実の出来事なのかと疑ってしまう。それほど今までの私には縁遠かったことが立て続けに起こっているのだ。杉元さんは私に対して、少なくとも敵対心を抱いてはいない。自惚れでなければ好意も感じる。この場合の好意というのは色恋等ではなく庇護対象としてのそれで、ともすればアシリパさんに対するものとあまり変わらないのかもしれないがそれでも信じられないことだった。今まで自分に近づいてくるのはなにか下心を隠したいけ好かない連中ばかりだったから。杉元さんはそういったものを全部抜きにして『私』を見てくれている。だからこそどうしていいのかわからないのだ。
二人がヒグマの糞で盛り上がっている間もそんなことが頭を巡って一緒に笑う気にはなれなかったが、こんな時に自分のことばかりを考えていてはだめだ、と頭を振って再び二人の会話に耳を傾ける。アシリパさんの推測によるとその糞は今日の朝のもので、しかもその上で人間の暴れ回った形跡があるというから驚きだ。もちろんそんな狂気的なことをするのは姉畑支遁くらいだろう。
日が落ち始めた頃、リュウがまたなにかに反応して一目散に走り出した。その先には一頭の大きなヒグマがいて、人間が襲われているのが見える。あれが姉畑支遁か。アシリパさんが弓を構えたが姉畑支遁の持っていた銃が暴発したために体勢を崩し、助けようとした杉元さんと私と三人揃って池に落下した。
「杉元!!ヒグマが襲って来るぞッ!」
「ホパラタだッ!!」
一足先に池から這い上がった杉元さんが銃をダメにしてしまい、アシリパさん直伝のホパラタでヒグマを威嚇しようとしたものの全く効果はなく、別の池へ再び落下したのが確認できた。ひとまず無事なようで私はほっと胸を撫で下ろす。だがアシリパさんの持っていた弓矢も毒が水に溶けてしまったらしくまさに絶対絶命だ。この状況で杉元さんと姉畑支遁の二人をどうやって助ければいいのか……。
「イチかバチか私が……」
「やめろ!刀じゃヒグマには敵わない」
「……そうかもしれないですけど、」
「…………ぎいやッ!!蛇だぁッ!!」
そういえばアシリパさん、蛇がだめだったな。目の前でうねうねと動く蛇に一頻り叫んだあと、アシリパさんは「ウコチャヌプコロッ!」という掛け声とともに蛇を掴んでヒグマの方へ思いきり放り投げた。危機的状況ではあるが少し冷静さを取り戻した私はなぜその掛け声を選んだのか問い質したい気持ちでいっぱいだった。結果的にその蛇でヒグマが怯んだ隙をついて、姉畑支遁はついに文字通りヒグマと一心同体に……い、いや、なにかが違う気がする……あれ、違わないのかな……よくわからなくなってきた。私は池から這い上がることも忘れてただその光景に釘付けだったが、単身で走り寄った杉元さんが「姉畑先生もう充分だろッ!」と叫ぶのを聞いて漸く我に返る。
「杉元何やってる!ヤチマナコに飛び込めッ!」
「俺は不死身だぜ!!」
いくら不死身でも丸腰でヒグマに太刀打ちなんてできるはずない……と思わず息を呑んだが、どうやらさきほどアシリパさんが撃ち損じた毒の付いた矢を拾っていたらしく、それをヒグマの腕に刺してから池へと飛び込んだ。アシリパさんと私はヒグマの体に毒が回って絶命するのを見届けてから杉元さんのそばへ駆け寄る。すぐ近くには燃え尽きた姉畑支遁が安らかな顔で息絶えていた。ヒグマとウコチャヌプコロの挙句腹上死とは恐れ入った。正当化する気は微塵もないが、こんなことを成し遂げる人間は後にも先にも彼くらいだろう。そうであってほしい。
「尾形さんが谷垣さんを助けるなんてちょっと意外でした」
「失礼なやつだな」
「だって、意味深なこと言ってたし」
「……あいつを助けるのが後々得になると判断しただけだ」
「へえ」
「……」
いつものお返しとばかりからかうように相槌を打つとじろりと睨まれたのでなにか言われる前に退散することにした。ヒグマの方にはアイヌの男たちが集まっていて、少し離れて杉元さんの姿が見える。姉畑支遁の皮を剥がすのだろうとすぐに気付いて、彼の方へ近寄った。
「手伝います」
「うん」
「……あの、さっきはごめんなさい」
「なんだっけ?」
「あー……、忘れたならいいです」
「……俺さ、最初はのこと信用できない奴だと思ってたけど…………今は、そうじゃないから」
「……」
「…………って、いや、そうじゃなくてなんていうかさ、」
「ははっ」
「え、今笑うところあった?」
「尾形さんよりは信用してくれてるって思っていいんですよね?」
「いやあいつは信用ゼロだから比べる対象にもならないけど」
怪訝な表情の杉元さんを放置して私は穴を掘る。私も大分馴染んできたようだ。