「尾形になにかされなかった?」
「…………さ、れてない、です」
杉元さんに神妙な面持ちでそう問いかけられた私は一瞬呆気にとられながらなんとか答える。いや実はすぐ寝てしまったので「なにか」という抽象的な質問に対して私は答えを持っていない。彼の聞きたいのは恐らく昨夜尾形さんに危害を加えられたのではないかということだと思うが、自身の認識している範囲で杉元さんの心配するようなことは全くなかった。……眠ったあとに毒を盛られたりしていたらわからないけれど。しかし今の時点で私の体には異変は感じられないのできっと大丈夫だろう。尾形さんも、今は敵地に単身乗り込んでいるようなものだからわざわざそんな疑われるような行動はおこさないはずだ。それに尾形さんが衝動的なふるまいをするのはあまり想像できない。もしするとしたら有利な状況で、もっと巧妙な手口で実行するはず。なんとも歯切れの悪い答えだったが、杉元さんはそれを聞いたあと一呼吸置いて「なら、いいけど」と消え入るような声で言った。
自身にあらぬ疑いがかけられていることも知らず(実際はわかっているかもしれないけれど)尾形さんは今日も周囲を警戒している。一度見張り役を変わろうかと持ち掛けたことがあったが、「必要ない」の4文字で一蹴されてしまった。彼の後ろ姿を見ながら、私はあの人も大概頑固だ、と自分のことは棚に上げて口を一文字に結ぶ。杉元さんも尾形さんも、人に頼るということをしないのだ。少しは白石さんを見習ってほしい。
「あいつが気になるの?」
「そういうわけじゃ……」
「やっぱり、尾形には近づかない方がいい」
「……たしかに尾形さんは何を考えているのかわからないですけど」
「あっ、いや、別に、強制したいわけじゃなくて」
「わかってます、心配してくれてるんですよね?ありがとうございます」
「……うん……」
先日尾形さんに言われたことを気にしているらしく杉元さんは気まずそうに鼻をかいたが、私の方も彼に意地悪とか勝手な理由で束縛しようとする意図がないことくらいはわかっている。杉元さんは優しくて、言葉が足りない。たぶん杉元さんの中には彼なりの理由があるのだと思うけれど、それを言葉にしないまま突き進んでいく。ちゃんと伝えてくれればいいのに、などと若干の不満を抱きつつ、結局私自身もそれを言えないでいた。
大雪山を十勝方面へ下山し釧路を目指す理由は、追手を撒くためともうひとつ、鈴川聖弘から得た刺青の囚人の情報のためだが、そこに食料確保の問題があった。追手の意表をつくといっても白石さんのいうとおり、向こうがこのまま諦めるとは思えないから万一の可能性も考えて銃は使うことができない。となるとアシリパさんの罠の知識が生きてくるのだがこの所謂圧殺式の罠で獲れるのがネズミばかりなのだ。この状況で贅沢は言っていられないとわかっているものの、やはり毎食ネズミというのは少し物足りない。しかも下山するにつれて獲れる量も減り、最後の方は1匹を5人で分け合うような状態だった。……正直ひもじい。釧路に着いたらなにか美味しいものをお腹いっぱい食べたいと思いながら私は少量の焼きネズミをちまちまと齧る。
「痛あッ!!」
途中で白石さんがヘビに咬まれたと言って頭を血まみれにしていた。「ヘビ」と聞いた瞬間、アシリパさんは白石さんと距離を取るように杉元さんの後ろへと隠れる。どうやらアシリパさんはヘビが大の苦手らしい。白石さんはアシリパさんや尾形さんに毒を吸いだしてくれるよう頼んだけど悉く断られていて、それについては同情するものの自分が頼まれてもたしかにやる気はしない。尾形さんなんか「歯茎とかに毒が入ったら嫌だから……」などと真顔で拒否していた。この反応はたぶん本気で嫌なんだろうなと思いながら、自分に振られないよう少しずつ白石さんから距離を取る。白石さんには申し訳ないが私も嫌だ。
「、火をおこすから薪を集めてきてくれ」
「わかりました」
「俺も一緒に行こうか?」
「杉元はこれをさっきのマムシの頭に刺してきてくれないか」
「なあに?茎?」
「ヨモギの茎だ!早く!」
「はいはい、わかったよ」
なにかのおまじないかな、と思いながら私は薪にできそうな枝を探しにアシリパさんたちのもとを離れる。後ろで杉元さんが「いいからさっさと行けよ!」と叫んでいるのが聞こえたのでまた尾形さんと喧嘩してるのか……と溜息を吐いた。大方尾形さんがなにか余計なことを言ってからかっているのだろう。
「」
「……なんだ、尾形さんじゃないですか。どうしたんですか?」
「なんだはないだろ。俺も薪探しに付き合おうと思ってな」
「見張りはいいんですか?」
「何を怒ってんだ?」
「べ、別に怒ってないですけど……。それより、杉元さんに喧嘩売るのやめてくださいよ」
「俺がそんなめんどくせぇことすると思うか」
「……さっきも何か言い合いしてたでしょう?」
「あいつが勝手に怒っただけだ」
彼は自覚がないのかすっとぼけているだけなのかどちらだと思うかと聞かれたら、私は迷わず後者だと答えるだろう。すでに口元が若干上がっている尾形さんは悪びれる様子もないのできっと今後も変わらないだろうなあと私は諦めることにした。
「なんて言ったんですか、杉元さんに」
「なんだと思う?」
「質問を質問で返すのなしにしませんか」
「杉元に聞いてみろよ」
埒が明かないので会話することすら諦め、私は黙々と枝を拾う。
やがて十分な量の薪が集まったので帰ろうと尾形さんを振り返ると、驚くべきことに彼は枝らしきものをほとんど持っていなかった。なにしにきたんですか?とうっかり口走りそうになったが、その前に「貸せ」と尾形さんが言うと同時に私の持っていた薪をひったくるように奪いそのまま元きた道を戻っていってしまったので、ぽかんとしながらその背中を見送る。なにを考えているのかわからない。
アシリパさんが採ってきた薬草を火にくべて、その煙を白石さんが患部に当てる。これがヘビに咬まれた傷に効くらしいのだが、煙で激しくせき込む白石さんを見ていると本当に大丈夫なのかと不安に駆られた。頭が倍以上に腫れあがった白石さんはそれでも焦る様子をほとんど見せず、ヘビを怖がるアシリパさんを杉元さんと一緒にからかって遊んでいる。普段は物怖じしない彼女がここまで怖がるというのはたしかに珍しいことだけど……。そうやってふざけていたら本当に大きなヘビが現れて、アシリパさんは一目散に逃げていった。尾形さんも珍しく慌てた様子で同じ方向へ走っていったので、私も二人の後を追う。
「アマニュウだ。も持っていた方がいい!」
「あ、はい……」
暫く走ったあとでアシリパさんがヘビが嫌う草とやらを大量に懐へつめ始めた。草まみれのアシリパさんからは独特の青臭い匂いが漂う。
「もう暗いし、これ以上は進めないな」
「でも、またあの大きなヘビが出るかも……!」
「周りにその……アマニュウ?たくさん置けば大丈夫ですよ」
いずれにせよこの暗闇のなかを歩き回る方が危険だ。それは彼女自身もよくわかっているはずで、まだ不安そうな顔をしていたがしぶしぶ頷いた。気休めと言ってしまえばそれまでだが、寝床の周りをさきほど大量に集めた草でぐるりと囲む。もちろんアシリパさんは服の中へとパンパンにつめこんだ草もそのままだ。
暫くすると静かな寝息が聞こえ、アシリパさんが無事眠れたことがわかってほっと胸を撫で下ろした。私はというと相変わらず寝付きが悪く、風でかさかさ鳴る草や葉の音を聞き、星空を眺めて時間を潰す。
アシリパさんも、杉元さんも、白石さんも、尾形さんも、みんな寝てしまったのに、私だけが現実に取り残されている。
私が置いて行かれたのか、それとも、私だけが前に進めないだけなのか。
どちらなのかはわからないけれど、ひとつたしかなことは、私はいつも失う側にいるということだ。