動力を失った気球が木に引っかかって完全に停止したのはわりと早い段階のことである。第七師団司令部からかなり移動できたものの、まるで見つけてくださいとでもいうように空を漂っていたからきっと向こうは私たちの行動をいくらかは把握しているだろう。尾形さんも同じ考えらしく地上に降り立って一休みしている私たちに「グズグズしてたら追いつかれるぞ」と急かすように言ったが、杉元さんの出血が止まらないらしく手当のため留まることになった。
「、水を汲んできてくれるか」
「わかりました」
渡された飯盒を受け取りすぐそこの川で水を汲もうと岩場に左手をつくと、水面に映った自分がとんでもなく情けない顔をしていることに気付いて手を止めた。この顔を見られていたのか……。あまり感情を表さないようにと務めていたはずだったが、最近上手くできていない気がする。……これはいかん。またしても動きをぴたりと止めていると、背後から「おい、どうした」と尾形さんに声を掛けられたので一度ぎゅっと目を閉じてからぱっと開き、もう一度自分の顔を確認してから振り返る。
「なにか見つけたのか」
「いや、なにも」
「……」
「そ、そんなに睨まないでくださいよ……」
水を汲んだ飯盒をアシリパさんへ返してから私は川へと戻り、濡らした手ぬぐいで自分の顔を洗った。杉元さんはアシリパさんに任せることにしよう。私ができることは……たぶん、今はこうやって水汲みをすることくらいなものだ。きっと……というか絶対、まだ彼の中では私が戦闘に参加することには納得がいっていないのだろうけど流石に水汲みくらいじゃ口を出してこないし。もう動いても支障はないんだけどなあと溜息を吐きながら傷があった場所を擦っていると、じゃり、と砂を踏む音が聞こえた。「おい、行くぞ」と少し苛立った声色で声を掛けてきたのは予想通り尾形さんで、私がそれに答え立ち上がると怪訝な、というか苦虫を噛み潰したというか……とにかく微妙な表情の尾形さんがこちらを見ていた。
「それ、どういう感情の顔ですか」
「そりゃこっちの台詞だ。さっきまで死にそうな顔してただろ」
「いや、私もアシリパさんみたいにしっかりしないといけないなって」
「ははッ、そうだな。お前はいつも逃げ回っているだけだ」
「……尾形さんに言われなくても、わかってます」
まるで私の人生の全てを見られていたようで、そう言い返すのが精いっぱいだった。尾形さんの顔を見れないまま杉元さんたちのもとへ戻ると「お、来た来た」という白石さんの呑気な声に迎えられる。
「お待たせしました」
「……あのさ、その……ごめん」
「…………すみません話が見えないんですが」
「俺のこと心配してるって、アシリパさんが……」
「それでどうしてごめんになるのですか?」
「え?いや、だって」
「おい、早く移動するぞ」
「あ、はい」
私やアシリパさんが杉元さんを心配するなんていつものことなのに今更謝るなんてどういう風の吹き回しだろう。真意を聞けないまま再出発した私は少し前を歩く杉元さんの背中を見つめて首を傾げた。それにしても2発も撃たれた状態でこんな険しい山道を歩き続けられるなんて相変わらず恐ろしく体力のある人だ。刀1本持っただけの私がこんなに息を荒げている方がおかしい気がしてきた。……あ、そういえば銃置いてきちゃったなと私は預けた主である牛山さんの姿を思い浮かべる。渋る杉元さんをなんとか説得できたのは銃を牛山さんに預けたままにするという条件を提示したことも大きい。いやそこまで大事な物というわけでもないのだけど。また合流できるだろうかと考えつつなんとか歩を進めていた私の後方から「見つかった!」と珍しく焦った様子で尾形さんが叫んだ。退路などないので仕方なく大雪山へと足を踏み入れたが、天候が急に悪くなり真冬のような寒さが私たちを襲う。冷たい風が絶え間なく吹いているせいで寒いというより最早痛いという方が勝ってきた。このままではまずい、と避難場所を探していたら白石さんが半笑いで独り言をぶつぶつ言い始めたのでいっそ私もおかしくなってしまいたいなどととんでもないことを考えつつ辺りを見渡す。
「ユクだッ!杉元オスを撃てッ!」
「エゾシカを撃つのか!?」
「大きいのが3頭必要だ!」
杉元さんが撃つより早く、尾形さんがユクを2頭同時に仕留めた。どうやらユクの中に避難するつもりらしい。寒さで回らない頭でな、なるほど~と感心したもののすぐに数が足りないことに気付く。緊急時だから2人で1頭なのだろうか。だとしたら組み合わせがとても気になるところだ。恐らくアシリパさんは杉元さんと一緒だと思うけど……服を脱ぎ捨てて踊り狂うシライシさんを制御できる自信はないのでここは無難に尾形さんとお願いしたいところだ。いや、意表をついて白石さんと尾形さんもアリだろうか?などと考えているうちに白石さんは尾形さんによってユクの中にぶちこまれ、次いで私も別のユクへ引きずり込まれた。大きめのシカとはいえ、やはり大人二人が収まるにはかなり窮屈だがこの際それは我慢だ。生臭いけれど暖かい。なにより風を凌げるというのが大きく、氷のように冷たかった手先がじんわりと温まっていくのを感じた。
「杉元じゃなくて残念だったな」
「残念って?」
聞き返したが返事はなかった。自分から聞いてきたくせに……という思いは多少あったが尾形さんは時々ちょっとよくわからない発言をするし、折角答えても無視されることすらあるのできっと大した用件ではないのだろうと思う。無視というか、恐らく私の返答によって彼の欲しかった言葉を得られたからそこで話は終わりといった感じだろうか。今回はたぶん尾形さんにとっては問いかけというより独り言に近い部類だったのだろうと自分の中で結論付けてそれ以上つっこまないことにした。だが無言でいるとシカの体内で不気味に響く風の音が気になって仕方がないので、私はとりあえず思ったことを口にしてみる。
「白石さん……大丈夫ですかね」
「さあな」
「……」
「……」
何度目かわからないがやっぱりこの人とは会話が続かないなあとつくづく実感する。まあ、彼にとっては興味のない話題だったのだろう。ええと、尾形さんが興味ありそうな話題は……なんだろう……。
「尾形さんって好きなものとかあるんですか?」
「……ないことはない」
「教えてはくれないんですね」
「あんたに教えて俺に何の得がある?」
「いや損得じゃなくて、ただの雑談ですから……そんな難しく考えなくても」
「この状況でよくそんな呑気なこと言ってられるな」
「……たしかに生きるか死ぬかのやばい状況ですけど、気を紛らわせたくもなるじゃないですか」
「……聞くだけ無駄ってことか」
「え、ちょっと、自己解決しないでくださいよ」
「いいから少し寝ておけ」
相変わらず勝手な人だなあと思いつつも眠気には勝てなかった。寝ておけと言われた途端私の瞼は急に重くなり、やがて持ち上げることができなくなってしまう。尾形さんの声には眠くなる成分でも含まれているのだろうか?などと微睡む脳で突拍子もないことを考えつつ私は眠りに落ちた。