杉元さんの足取りは重く、息も荒い。後ろからは追手が迫っている。この状況はアレだ、夕張の時に少し似ているなと思った。ただしあの時撃たれたのは私の方だったから立場は真逆である。杉元さんが助けてくれたことを、私は一生忘れないだろう。傷口を確認していると杉元さんは「大したことない……」と呟いた。大したことないはずないだろうにと私は顔を曇らせたが杉元さんは前を見ていて気付いていないようだ。人には無茶するなとか言っておきながら率先して無茶をするのだから杉元さんは狡い。釈然としないまま杉元さんの背中を支えつつ後ろの追手を確認していると白石さんと杉元さんが心底驚いたように「何だありゃあ!!」と声を揃えて叫んだ。
「気球隊の試作機だ!!」
「あれだッ!あれを奪うぞッ!」
「でも……あれは水素で浮いてるだけですよ?逃げられるとは思えません」
「地上を逃げ回るよりいくらかマシだろ!」
気球は何度か見たことがあるが動きが非常に遅かった記憶がある。そんなもので果たして逃げ切ることができるのだろうか……不安を抱く私を他所に気球を奪うべく杉元さんたちが軍服たちの中へつっこんでいったので私も仕方なく後に続く。わずかに浮き上がった気球に飛び乗るが、軍人たちが黙っているはずもなく、奪い返そうと気球に群がってくる。それを銃床やらで殴って殴って引っぺがすと、漸く地上から届かないほどの高さまで気球が上昇した。一安心、といきたいところだったが気球後方には茶褐色の軍服の男が抜き身の軍刀を持ってへばり付いていてそれを見つけた杉元さんが「鯉登少尉……!!」と呟き暫くの間睨み合う。彼がさきほど尾形さんの言っていた薩摩隼人らしい。軍属らしからぬ長髪を見て私は正直羨ましい気持ちになっていた。これも鶴見中尉のお気に入り故許されているのだろうか。まあ今更そんなこと口惜しがってもどうしようもないので今はこの場を切り抜ける方法を考えなければいけない。この人数相手に単身で乗り込んでくるということは余程腕に覚えがあるのか、はたまた若さ故の無謀な突撃か。
「銃剣よこせ。俺がやる」
「示現流を使うぞ。2発撃たれた状態で勝てる相手じゃない」
「なら私が……!」
「そこからじゃ間に合わん」
やっぱりだめか……鯉登少尉から一番離れたところにいる私では移動する間に杉元さんがやられてしまうと、尾形さんはすっぱり却下して杉元さんへ銃剣を渡す。鯉登少尉はその尾形さんに気づいてなにやら叫んでいたが関東生まれの私からすると訛りがきつすぎて何を言っているのかさっぱりわからなかった。その表情からとりあえずだいぶ怒っていることだけは伝わったが。
「相変わらず何を言ってるかサッパリ分からんですな鯉登少尉殿。興奮すると早口の薩摩弁になりモスから」
「尾形さん、無暗に煽るのはやめてください」
あ、この人第七師団に居た時からこうやってからかってたなと察した私は呆れ顔でつっこみを入れる。尾形さんは人を煽っている時が一番生き生きしているような……。それはさておき、杉元さんは大丈夫なのだろうか。示現流とやりあったことはないがたしか初太刀がかなり重いと聞く。ついさっき恩返ししなければと決意したばかりにも関わらず、私は見守ることしかできないことに歯痒さを感じた。短く叫んだ鯉登少尉が両手で軍刀を振りかぶると、杉元さんがそれを小銃で受けようとする。ゴシャッと嫌な音がして刀身が小銃に食い込む。鯉登少尉の勢いは止まらず、何度も軍刀を振り下ろして気球を破壊していった。初太刀どころじゃないではないか……なんだか聞いていた話と違うのは鯉登少尉に限っての話なのか、私にはわからない。足を踏み外しそうになる杉元さんを見て近づこうとすると、白石さんが私の手をひっぱり小声で名前を呼んだ。
「なんですか、今、杉元さんが……!」
「これ、これを気球に縛り付けてくれ」
シライシさんが差し出したのは縄で、それを私に手渡すともう片方の端っこを自身の腰にきつく結び始めた。……一体なにをするつもりなのだろう。時々奇想天外な発想で驚かせてくる白石さんだが何か秘策でもあるのか……彼の考えは全く読めなかったがとりあえず信じるしかないと、受け取った縄を木材にきつくきつく縛り付けた。カァン!となにかが刺さる音がして再び杉元さんの方へ目を向けると鯉登少尉のすぐ近くに矢が刺さっていて動きがぴたりと止まっていた。アシリパさんだろうか?と思っているうちに白石さんがすかさず鯉登少尉へ飛び蹴りをお見舞いする。綺麗に決まったその飛び蹴りによって、鯉登少尉は森の中へ落下していった。
「あはははッ!アバヨ鯉登ちゃん!!」
「シライシ木に突っ込むぞぉ!!」
縄で繋がれた白石さんは気球の進むまま、木の中に突っ込んでいく。ガサガサベキベキと痛そうな音を立てた白石さんが次に姿を現すといつの間にかアシリパさんが乗っていて、杉元さんが「アシリパさん!!」と嬉しそうな声を零した。
私が白石さんと気球に繋いだ紐を外すのに苦戦している間、アシリパさんは杉元さんの傷の具合を確認する。さきほどの脂汗を滲ませた様子からは随分回復したみたいに見えるけど……なんて気になってよそ見をしながら手を動かすが、解けないようにとガッチガチに結んだ紐は本当に解けそうな気配がない。
「ねえ~、ちゃんまだあ?」
「めちゃくちゃ固く結んじゃって……ちょっと待ってください……」
「肩の銃弾は貫通してるが、左胸にはまだ弾が入ってる。あとで取り出さないと」
「こんな危険を冒してまで俺を取り戻しに来るなんて……。俺は脱獄王だぜ?自分で逃げられたのに……」
「みんな白石は諦めようと言った。でも助けに行こうと言ったのは杉元だけだ」
白石さんが少しだけ嬉しそうに「ほんと?」と頬を赤らめた。口には出さなかったが「まあ白石さんなら放っておいても大丈夫だろう」なんて思ってしまってごめんなさい。そんなほんの少しの罪悪感からすっと目を逸らすと、視線の先にはこれまた嬉しそうに小銃を色んな角度から眺める尾形さんがいた。尾形さんて、銃が好きなのかなあ?とか呑気なことを考えていたら「お前……土方と内通してたな?」と低く囁く杉元さんの声が耳に入り、視線を戻す。白石さんが内通していた、というのは土方さんも肯定はしないが否定もしていない、限りなく肯定に近い沈黙である。「一度裏切ったやつは何度でも裏切る」というのは杉元さんから何回も聞いた台詞だ。今まで協力し合って旅をしてきた白石さんでも、きっと杉元さんは容赦しないだろう。成り行きを見守っていると、冷や汗をかいた白石さんが気球から飛び降りようと身を乗り出した。
「待てシライシ逃げるな!!これを見ろ!!」
「あ……!!それはッ」
杉元さんが懐から取り出した刺青の写しは白石さんが牛山さんに渡したものだそうだが、デタラメの写しだった、とそれを投げ捨てた。
「白石は俺たちを裏切ってなかった」
「そうッその通り!!言ったはずだぜ、俺はお前らに賭けるってな!!」
「でも牛山がこの場にいなくて良かったな。旭川製の特大ストゥで白石の肛門を破壊するって言ってたぞ」
「やだあッ」
二人のやりとりを緊張しながら見守っていた私は白石さんがいつもの調子に戻ったことでほっと胸を撫で下ろした。この居心地の良い関係がずっと続けばいいのにと思わずにはいられないが、それが薄氷のように脆いことも十分私は理解している。