最果ての熱砂16

 丁半の勝負に敗れた若山さんが外の弾薬を取り戻したおかげで私たちは漸く脱出の機会に恵まれた。といっても危機的状況に変わりはない。若山さんが入れ墨の囚人という衝撃の事実も判明したが、それもここから脱出できなければ意味がない情報なのだ。先ほどまで若山さんと痴話喧嘩を繰り広げていた仲沢さんは急にしおらしくなり「おやぶぅん」と隣で情けない声を出していた。ヒグマは全部で3頭いてそのうち1頭は下半身を露出した若山さんを追って森に消えた。残るは2頭だ。木が折れる音がして、奥からヒグマが1頭現れた。銃を持っているのは杉元さんだけで弾も5発のみ。アシリパさんの弓もない状態では杉元さんの銃だけが頼りだ。

「下がれアシリパ!!」
も下がってろ!」

 ヒグマに切っ先を向けた私に杉元さんがそう怒鳴った。いや私だって少しくらいなら戦力になりますから信用してくださいよと反論する前に装填が完了した杉元さんの放つ弾丸がヒグマの頭部を撃ち抜く。立て続けに弾丸をお見舞いするも、なかなか死なないヒグマは悲鳴を上げながら立ち上がった。「オレは不死身の杉元だッ!!」とすっかりお馴染みとなった決め台詞を叫びヒグマの口内に小銃を文字通りぶち込んだ杉元さんだが抵抗の激しくなったヒグマの太く大きな爪が彼の顔面に食い込み、次の瞬間その皮膚は引き裂かれる。さきほど装填した最後の弾薬を撃ち込んだ後ヒグマは動きを止めた。漸く1頭仕留めたが、外にはあと2頭も待ち構えている。幸い片目のヒグマは生首をくっちゃくっちゃとえぐい音を立てて美味しそうに味わっているのでその間に防御を固めるべく家主が不在のこの家の柱を手あたり次第斬り倒しまくった。本来ならすぐにでも杉元さんの傷の手当てをするべきなのだが、当の本人は仲沢さんも下半身に入れ墨があるのではとべそをかく彼の洋袴を無理矢理脱がそうとしていた。

「杉元さん、先に手当した方がいいですよ」
「いいからそっち押さえてくれ」
「……ハイ」

 「やめてください!!」と泣きわめく仲沢さん押さえつけるとこれもう、私たちの方がヤクザだったのではなんて気がしてくる。結局仲沢さんの下半身にも普通の入れ墨しか入っていなくて杉元さんが「さっさと汚ぇケツしまいな!!」とそのお尻をばちんと叩いた。なんという理不尽。大の大人がここまで泣きじゃくるのはなんとも珍しい光景だが、そうさせている張本人である私としては複雑な心境である。

「とにかく、なんとか早くここを出ないとあの親分はヒグマに……」
「おやぶぅん!!」

 親分の話題になった途端仲沢さんが一層大きな声で叫んだ。この人、本当にヤクザなのだろうか。なんて思ってしまうくらい仲沢さんは泣き虫だ。それとも親分のことだからなのだろうか。それも親分の身を案じる仲沢さんを杉元さんが「あの親分なら何とか逃げられてるさ」と慰めたことですすり泣きくらいにおさまった。それにしても杉元さんはあんな大怪我して痛くないのだろうか。所謂脳内麻薬というやつが分泌されているのか、それとも痛みを感じ難い体質なのか、はたまた我慢しているだけなのか。戦場であれば多少の我慢は必要であるが、今はそんなことする必要ないのだけれど。私としてはすぐ手当をしたいのだけれど本人にその気がまるでないようなのがもどかしい。阻塞がひと段落したのか戻ってきた白石さんが「隠し包丁いれた焼きナスみたいになってんじゃん」と反応に困る冗談をいうものだから笑いそうになったもののいやこれ笑っていいのかなと逡巡した私は頑張って笑いを堪える。誰が上手いこと言えと。もう焼きナスにしか見えなくなってしまった私はあまり杉元さんの顔を見ないようにして先刻斃したヒグマを一人解体するアシリパさんの手伝いに向かった。正直アシリパさんの手際が良すぎてあまりやることはなかったのだが、苦労して取り出した内臓の網油を手に杉元さんと向かい合う。

「目に入ったら大変ですから、閉じててくださいね」

 こくりと頷いた杉元さんが目を閉じたので、溶かした油を杉元さんの顔に丁寧に塗っていく。間近で見ると本当に酷い怪我だ。ヒグマの爪の威力を目の当たりにし、ぞくりと背筋が寒くなった。

「痛いですか?痛いですよね、痛くなかったら逆に心配です私」
「いや……うん、痛いけど大丈夫」
「この血も、あとで洗わないとですね」
「うん。まあ、慣れてるから大丈夫だよ」
「杉元さんと一緒にいたら洗濯の腕上がりそうですよね」

「はい?」
「あんまり無茶するなよな。あんた見てると……なんか、ハラハラする」
「……先陣きって無茶する人に言われても説得力ゼロなんですけど」
「俺は不死身だ」
「私だって日露戦争の帰還兵なんですから、結構不死身だと思いますよ」

 不死身は杉元さんの専売特許じゃないんですよ。まだ何か言おうとしていた杉元さんの口に無理矢理油を塗るとしかめっ面をしたものの大人しくなった。ハラハラするとは如何なものか。私だって一応戦闘に関する教育は受けている元将校なのだがそんなガンガンいこうぜ的な指揮をしていたつもりはなかった。もしそうであればかつての部下には非常に申し訳のない話ではあるが。私についてきてくれてた部下たちって、かなり優秀だったんだろうか。決してだめな部下たちというわけではなかったけれど無鉄砲な無茶振りする系上司につきあってくれていた彼らの顔を思いうかべると居た堪れない気持ちになった。杉元さんの顔に油を塗り終わったあとも今までの自分の行いを省みていた私を放置し、他の面々は仕留めたヒグマを食べるか否かで盛り上がっていた。ああ、確かにこの動物の油のにおいは食欲をそそるよね。

「杉元……!!これはニリンソウじゃないぞ」
「え?そうなの?」

 この農家に逃げ込む前に私と杉元さんでたんまり摘み取っておいたニリンソウはニリンソウではなかったことが判明しがっかりされるかと思っていた私だがこれはトリカブトだったらしい。つまり、毒だ。アシリパさんが作ったトリカブトの毒の効力を杉元さんが身をもって確かめることになった。一応怪我人だし私がやりましょうかと名乗り出てはみたのだけれど反対されてしまい、糸で縛った杉元さんの舌の先に毒を少量乗せる。反応が出るのを固唾を飲んで見守っている間にも外からヒグマのであろう物音が聞こえてくる。暫くして滝のような汗を流した杉元さんが「ほっへ」と何かを訴えたけれどアシリパさんが「他にも指の股に挟んでおく方法もあるけどそっちがよかったか?」などと今更すぎる提案をしたのでこの程度の分量なら人間が死ぬようなこともないのかなあなんて悠長に構えていた私は結構この集団に慣れてきているらしい。

「よしッ!!赤毛どもを斃してここを脱出するぞ」

 農具で作った即席の槍を装備し、残り2頭のヒグマを斃す作戦をたてた。さきほどヒグマに殺されてしまったおじさんの死体を外に運び出すと爪の欠けたヒグマがその死体を食べようとしたのか足を咥えたのでその隙に槍を打ちこむ。杉元さんがもう一本お見舞いしようとしたとき、天井がミシミシと嫌な音を立てて軋んだ。2階から降りようとしていた片目のヒグマを杉元さんとキロランケさんに任せ、私たちは脱出するために入口の木材を大急ぎで避けていく。

「姫~~ッ!!」

 それはさきほどヒグマに追われて消えた若山さんだった。無事だったのかと思うと同時に姫!?姫って誰?まさか仲沢さんのこと?と一生懸命思考を巡らせていた。できれば今はヒグマを斃すことに集中したいところだったのだが姫が気になって仕方がない。恐らく私以外も同じことを考えている気がするがそんな私たちもおかまいなしに若山さんが「死ね化け物!!」と自動車の上から機関銃をぶち込むと片目のヒグマは漸く倒れた。もう1頭のヒグマから逃れるべくダンさんが乗ってきた自動車に乗りこんだ私たちだがどこからどうみても定員を超えているうえに乗っているのがガタイの良い男ばかりということもあって狭いなんてものではない。仲沢さんはなんなら嬉しそうにしているけれど私はキロランケさんと杉元さんとダンさんに挟まれて身動きが取れないものだから早く下ろしてほしいしでもここで下ろされたらヒグマがいるしという思考の板挟み状態に陥っていた。

「最後のヒグマが追ってくるぞ!!」
「速く速くッ」
「ヒグマの足はもっと速い。毒が効いて走れなくなってきたんだ」

 筋肉の壁で挟まれた私は早く毒が効きますようにと必死に祈っていたが、アシリパさんによるとじわじわとではあるが確実に毒は効いてきているようだ。このまま逃げ切れるかと思っていたところで、自動車が大きく揺れたあとに何かが地面に落ちたような音がした。「姫ッ!」と若山さんが叫んだので姫、こと仲沢さんが揺れに耐え切れず落ちてしまったらしい。その姫を追って勇敢な若山さんも走行中の自動車から転がり落ちると何の躊躇いもなく刀でヒグマに立ち向かい、腹を切り裂かれながらも撃退してしまった。「勝ちやがったよ、あの親分」と白石さんが呟いたが、漸く後ろを振り返れるくらいの空間を手に入れた私は若山さんも仲沢さんもあの怪我では長くはないだろうと思いながら一部始終を見守る。最期の瞬間何を喋っていたのかは聞こえなかったが、仲良く手を繋いだまま二人は動かなくなり「皮剥いでくる」と自動車を降りた杉元さんの背中をどんな顔して見送ったらいいのかわからなくてちらりと他のみんなを伺ったら全員神妙な面持ちをしていたので何故か安心してしまった。