最果ての熱砂15

 森の奥で、土饅頭にされた一頭の馬を見つけた。
 ところどころ齧られている馬の周りには赤毛が散らばっている。それを見たアシリパさんが土饅頭の上に乗っかった。

「なにすんの?」
「土饅頭に乗っている私が見えたら、持ち主は怒ってすっ飛んで来るはずだ」

 なるほど、こちらが探すのではなく見つけてもらおうということか。危険ではあるが確実な方法だ。アシリパさんによると、この土饅頭はさきほどの止め糞よりも新しいという。……つまりそれは―――

「来たッ!ホントに来たッ!!」

 草をかき分け、現れたのは片目の無いヒグマだった。ダンさんの言っていたモンスターだろうか。アシリパさんが弓を引きヒグマに狙いを定める。すると、右後方から悲鳴とともにどしん、と何かが倒れこむような音が聞こえた。音がした方を振り向くと従業員のおじさんがヒグマに襲われていた。私たちはヒグマは1頭だと思い込んでいたが、とんだ勘違いをしていたようだ。戦場に於いて想定外の出来事は付き物である。このように自身の軍が奇襲を受けて崩れそうになったとき、指揮官は判断を下さなければならない。どうする、助けるべきか、助けられる……のか?鯉口を切ったままの姿勢で、私は悩んでいた。刀ではヒグマを殺せないかもしれない。怯ませることくらいはできるだろうか。

「一度に2頭相手は無理だ!一旦引くぞッ!」

 杉元さんの声ではっと我にかえる。おじさんはまだ生きている。もしも私がしくじったら杉元さんが援護してくれるかもしれないという僅かな希望を胸に、刀を抜いて走り寄った。なんて大きさだろう。2メートル以上あるだろうか。私は人間より大きな生き物を殺したことがない。ヒグマを殺すには、どこを斬ればいい?アシリパさんは熊の頭を狙わないと言っていた。それなら矢張り心臓か。けど、この位置からでは心臓は狙えない……一か八か、だ。柄をぎゅっと握りしめ、刀をヒグマの胴体に突き刺す。熊が一瞬私の方を向いたけど、それとほぼ同時に熊におじさんの銃が暴発した。音に驚いたヒグマが逃げていくのを確認して、刀を鞘におさめる。おじさんは顔を引っかかれただけで済んだみたいだ。

「オイ立てるか?逃げるぞッ!」
「アイツ、指が一本無かった。去年の秋、指を銃で吹き飛ばされた奴だ」

 それは恐ろしい事実だった。指を吹き飛ばされたヒグマ、片目の無いヒグマ、そしてダンさんの言っていたことが真実ならもう一頭がこの森のどこかに潜んでいる。不死身のヒグマなど存在しなかったことを喜ぶべきか、それとも斃す相手が増えたことを嘆くべきなのか……。

「南に抜けて農家を目指そう!手当しないと……」
「傷はそこまで深くないみたいです」
「よし、急ぐぞ!」

 農家を目指す私たちの後ろを、さきほどのヒグマがついてくる。完全に獲物認定されているようだ。杉元さんが銃で応戦するが、それでもしつこく後を追ってくるのはアシリパさん曰はく「赤毛は性格が悪い」からだそうだ。……巻狩りの餌食になるなんて絶対嫌だ。

「如何して銃を持って来なかったんだよッ!」
「いや、だって、こんなことになるなんて、思わないじゃないですか!」
「だいたい、刀でヒグマの相手なんて無茶だろ!?死んだらどうすんだッ!」
「杉元さんにだけは言われたくないです!!」
「二人とも喧嘩するな!農家が見えたぞ!」

 アシリパさんが指をさす方角に、二階建ての家が見えた。足場の悪い森の中を全力疾走するのは容易ではない。へとへとなのは私だけではないはずだが、農家が見えた途端アシリパさんとおじさんの逃げ足が少しだけ速くなった。一体どこにそんな体力が……。二人が一足先に農家へ到着し玄関の戸を叩く。白石さんとキロランケさんが中にいると思っていたが、戸が開かないらしい。アシリパさんたちが開かない戸を力いっぱい叩いていると裏に回れという白石さんの叫び声が聞こえた。3頭目のヒグマが家に入ろうと周りをうろうろしていたらしく、逆方向からそのヒグマが現れ、私たちを捕捉する。焦る気持ちを抑えながら熊を刺激しないようゆっくりと歩き、漸く白石さんの待機していた小窓にたどり着くとアシリパさん、私、おじさんの順番に中へ入った。

「飛び込め杉元ッ!」

 間一髪で中に入ることができた杉元さんだけど、帯革を外したことで弾薬を全部外に置いてきてしまったらしい。なんにしても、ひとまず安心……そう思った矢先、隣に居たおじさんが急に窓の外へと吸い込まれ、耳を塞ぎたいほどの断末魔が鳴り響いた。開いていた小窓からヒグマの手が伸び、おじさんを引きずり出そうとしていたのだ。

「誰か手を貸せッ!」
「杉元もうよせッ!お前も引きずり出されるッ!」
「コイツは暗号の入れ墨を持つ脱獄囚かもしれないんだッ!」

 キロランケさんが杉元さんの小銃に自身のマキリをくくりつけ、銃剣もどきを作る。それでヒグマの顔面を数回刺すと、悲鳴を上げておじさんを離した。やっぱり疑っていたのか。頭部を酷く噛み千切られたおじさんは変な呻き声を上げている。恐らくもう助からないであろうそのおじさんの着物を捲って入れ墨を確認した杉元さんが「違った……囚人じゃねえ」と小さく呟いた。

「ここに銃は?」
「無いみたいだ」
「アシリパちゃん、弓矢は!?」
「…………弓は折れた。毒矢は赤毛に襲われて全部森で落とした」
「何やってんだよ、ドジッ!」

 そう叫んだ白石さんにアシリパさんの履いていたユクケレが投げつけられる。そうだよね、白石さんにはドジとか言われたくないよね……。銃を持って来なかった自分も大概かもしれないが。まあ今更後悔しても仕方のないことだ。まさか取りに戻れるわけでもないのだから、とにかく外に居る三頭のヒグマとどう戦うか、考えなくてはいけない。

「危険なのは外だけじゃない」

 キロランケさんのそばには額に「六」と刻まれた二つの生首があった。そのおじさんたちの顔には見覚えがない。更に奥からも知らないおじさんが新たに二人登場した。この二人もヒグマに追われてきたのだろうか?帽子を被った細面の男は仲沢達弥、小太りで頑固おやじ風な方は若山輝一郎と名乗った。キロランケさんによると二つの生首は競馬場で出会った調教師と厩務員らしい。あのときキロランケさんは代役の騎手として八百長をするよう二人に言われていたが、それを無視したせいで馬主であるやくざの親分が激怒して二人を殺し、キロランケさんも殺しに来たのだろうという。容疑者は仲沢さんと若山さん。どちらもこの家の家主だと主張しているが、不審な点が多すぎる。杉元さんもこのままではらちが明かないと思ったのか即席の銃剣を構えて男二人に向かって服を脱ぐよう命令した。くりからもんもんの入っている方がそのやくざの親分だろうから、そちらに杉元さんの落とした弾薬盒を取りに行かせようと言った直後、若山さんが隠していた刀を抜いて杉元さんに斬りかかった。どこから出したんだ、その刀。全然わからなかった。

「テメエらが連れてきたヒグマだろうが!!テメエでケツが拭けねえなら斬り刻んでヒグマの餌にしてやろうか」

 肩口から見える入れ墨にドスのきいた迫力のある声、一瞬で銃剣を切り落とす腕前。やくざの親分は若山さんだったようだ。同じ剣客なら私の領域だ。……と言いたいところだけどこの位置で刀を振り回せば鴨居にぶっ刺さるのは目に見えている。なんだか今日の私は白石さん並みに役に立っていない気がするなあと自嘲しながら、アシリパさんたちを背に動向を見守った。