最果ての熱砂14

 牧場の従業員のおじさんについていくと、たしかにいた。モンスターと呼ばれていたのは、大きな馬を背負った大きな赤毛のヒグマだった。

「杉元撃て!弓じゃ届かない!」

 杉元さんが放った銃弾はヒグマをかすめた程度だったけど、驚いたのかヒグマが馬を置いて逃げて行く。こんな事態になるとは思わず、自分の小銃をアシリパさんの大叔母さんの家に置いてきてしまったことを後悔していた。もし持っていたとしても、射撃が得意ではない私が役に立てていたかはわからないが……。それに、ダンさんの話を聞く限りあの赤毛のヒグマは相当賢いようだ。

「頭が良くてもヒグマはヒグマだ。この取り引き受けてやる。アイツを斃したら、アザラシの服を返してもらうぞ」

 ヒグマに詳しいアシリパさんならなんとかできるのではないだろうか。彼女の頼もしい言葉を聞いてそんな自信が湧いていたけど、ダンさんは去年の秋に銃で吹き飛ばしたというヒグマの一部を見せ、あれを不死身だと言った。彼があのヒグマを「モンスター」と呼ぶのは、いくら攻撃してもいつの間にか元に戻っているからという。

「斃せるものなら斃して来い」

 不死身のヒグマか……。私の知っている不死身とはもちろん杉元さんだけど、もしあの赤毛のヒグマが杉元さんのように不死身だとしたら少々厄介だ。ていうか、普通のヒグマも不死身とはいかずとも相当打たれ強くて厄介なのでできればお目にかかりたくないんだけど。とはいえ、ヒグマを斃さなければアザラシの服を取り戻すことはできない。

「白石はついてくるな。ドジだし、邪魔なだけだ。銃もないのにワイワイついてこられても足手まといだ」
「クーン」
「この森を南へ出ると誰も使っていない農家がある。勝手に休んでもかまわんだろう」
ちゃん、キロちゃん、一緒に行ってくれる?」
「いや、はこっちだ」
「ええっ!?そんな……」

 私、銃持ってきてないんだけど、大丈夫なのかなあ……。戦力に数えてくれているのは嬉しいことなのだけど、たぶん刀ではヒグマに太刀打ちできないと思う。もしかして、アシリパさんは私が銃を持っていないことに気付いていないのでは?と思っているうちにアシリパさんが私の着物の袖を引っ張りどんどん森の奥へ足を進めていく。

「アシリパさん、アメリカ人の馬が何頭食われようと知ったこっちゃない。こんなこと、時間の無駄じゃないか?」
「じゃあどうするつもりだったんだ?アメリカ人も殺して服を奪うのか?」

 人を殺すことに躊躇がないのは、日露戦争に出征したせいなのか……いや、その理論が成り立つなら、私やキロランケさんもそうなるだろう。だけど私はもう人殺しはまっぴらごめんだ。父や母の期待に応える自慢の息子になろうとしていたあの時はただ必死に敵兵を殺していたけど、日本に帰ってきた途端麻酔が切れたように押し寄せてきた罪悪感が正気に戻った私を苦しめている。夜毎繰り返される悪夢は日露戦争の光景だ。夢の中の私は未だ戦場にいる。杉元さんもまだ、あの戦場で戦っているのだろうか。私には、杉元さんがどうにも生き急いでいるように見えてならなかった。それは彼の目的のためだろうか。それとも、アシリパさんのため?

「あのアザラシの服は、フチたちの花嫁衣装だ。あの服はせめて血で穢したくない」

 私が手伝う理由はきっと大伯母さんのためではなくアシリパさんのためでもなく、彼らの「仲間」でありたいからなのだと思う。アイヌの女性たちにとってそれがどれほど価値のあるものなのかは私には見当もつかないことだから。二人の会話はそれきりだったけど、杉元さんがそれをどんな気持ちで聞いていたのかはよくわからなかった。なにか考えている風な杉元さんを置いて、アシリパさんが歩き始める。大きな木がそこら中に生えている森の中では、木の葉っぱや幹に遮られて日差しが届かない。雪はもう殆ど残っていないけど、日陰はまだ白い息がでるくらいの寒さを保っていた。少し先を行く彼女に続いて、杉元さん、従業員のおじさんと一緒に注意深く進んでいく。

はどう思う?」
「どう……とは」
「あのアメリカ人、大人しく渡すと思うか?」
「渡したくないから、無理難題を突きつけたんでしょうね」
「だよな~」
「でも私たちであのヒグマを退治したら考え直してくれるかも」
「うん、ヒグマに手を焼いているのは本当だろうからね」
「もしそれでも渋ったら手を貸しますよ」

 白石さんがいつもしているみたいに両手の親指で自分を指してにかっと笑ってみると、杉元さんがぷっとふきだして「シライシの顔思い出しちまった」と言いながら軍帽を被り直した。さっきまであんなに危なげな眼をしていたというのに、相変わらず表情のころころ変わる人だ。そのまま下を向いて動かなくなった杉元さんが何かを見つけたのかその場にしゃがみ込む。

「あれ……これ、ニリンソウかな?」
「どれですか?」

 杉元さんが摘み取った草を差し出したので、手に取って観察してみる。たしかに、アシリパさんの言っていたニリンソウの特徴にそっくりだ。アシリパさんはヒグマの痕跡を探しているのか、私たちから少し離れたところで地面を注意深く見ていたので、二人でせっせとニリンソウを摘んで杉元さんの背嚢へと放り込んでいく。アシリパさん喜ぶかなあと思っていたら、おじさんが話しかけてきた。

「そういや、あんたらどこからきたんだい?」
「小樽です」
「そりゃ、長旅だったねえ。なんでまた」
「人を探しているんだ。この牧場に妙な男が来なかったか?」
「ダンさんの牧場に妙な客?」
「一か月くらい前にあんたくらいの中年の男が訪ねて来なかったかい?」
「いやあ~どうだろうな。俺もついひと月前からこの牧場で働き始めたばっかりでね」
「へえ~……。ここへ来る前は?」
「…………」

 杉元さんの様子が変だ。帽子の陰になって表情は読み取れない。もしかしてこのおじさんを入れ墨の囚人だと疑っているのだろうか。たしかに白石さんの情報とは合致しているけど……。「へえ~~~」と不穏な返事しかしなくなった杉元さんをどきどきしながら見守っていると、アシリパさんがなにかを見つけたらしく、私たちを呼びつけた。またオソマかなあ。

「どうしたの?」
「いいから早く見てみろこれ!」

 妙にはしゃいでいるアシリパさんは「こんなの私も初めて見たぞ!」と興奮していたので、杉元さんと顔を見合わせた。オソマじゃないのかな?そう思って近づいたけど、アシリパさんが見つけたのはやけに遠くまで飛んでいるヒグマの止め糞だった。

「ん やっぱウンコかぁ~~~~」

 木の枝でヒグマの止め糞をグリグリしながらうんちくを傾ける彼女はいつものアシリパさんだった。従業員のおじさんも彼女の知識の深さに驚いている。流石に指が生えてくるヒグマなんて聞いたことはないようだけど、ヒグマにはまだ不思議なところがたくさんあるらしい。もしかしたら、本当にそんなことがあるのだろうか。だとしたら、あのヒグマを斃すことなんてできないんじゃ……。

「祟りだよ…………山の神様か何かの。不死身のヒグマはこの牧場を潰しにきたんだ」

 ダンさんは「自然をねじ伏せて生きねば我々開拓民に明日はない」と語ったという。アイヌの考え方と逆行するその主張はアシリパさんには到底納得できるものではないのだろう。フン、と不服そうに鼻をならした。

「アシリパさん、切り上げるかい?俺がもう一度あのアメリカ人と話し合うぜ」
「無理矢理奪い返せば大伯母に迷惑がかかる。円満に解決するにはヒグマを退治するしかない」

 杉元さんに任せたら話し合いでは済まなそうだし、私もアシリパさんには賛成だけど今のままではこちらの立場が弱すぎる。杉元さんほどの過激派ではないが、もしごちゃごちゃ言ってくるようなら私も加勢しよう。