最果ての熱砂13

 とある深夜、どう頑張ってもなかなか眠れず、外の空気を吸いにいくことにした。もともと寝つきの悪い方ではあるが、ここまで寝付けないのも珍しいことだ。ちなみに寝たら寝たで夢見も悪いのでどちらが良いのかはまさに究極の選択である。「眠れないときは星を数えるといいのよ」と母が良く言っていたけれど、私にとって星を数えるというのは心を落ち着かせるものでもあった。士官学校で嫌なことがあった日や膠着状態の戦場の中でいつもそうしていた。



 芝生に寝転がり星を眺める私を杉元さんが覗きこんできた。

「何してるんだ?」
「ちょっと眠れないので、星を見てました」
「へえ、詳しいのかい?」
「いや全然。星の名前とかは知らないんですけど、ただ見ているだけでも心が落ち着くというか」
「ふうん」

 杉元さんが私の隣で同じように寝転び、真っ直ぐ天を見上げた。―――ここからだと二股に分かれた傷跡がよく見える。それを見ていると、脳裏に戦場の光景が浮かび、慌てて星に視線を戻した。杉元さんのことは嫌いじゃない。むしろ、好き、なのだと思う。だけどこの「好き」は異性に対するものなのか。色恋に関する経験値が圧倒的に足りない私では考えても答えがでなかったからそれ以上考えるのをやめた。

「……杉元さんも眠れないんですか?」
「まあそんな感じかな」
「私寝つきが悪くて。小さい頃に母がそういう時は星を数えるといいって言っていたのでたまにこうやって眺めているんです」
「あぁ、だから夜中一人でいなくなってたんだ」
「気付いてましたか」
「……ねえ、本当にあんた、女なの?」
「本当ですよ」
「じゃあ、元軍人ってのは嘘……だよね?」
「いや、それも本当ですけど」
「だって……女の子が軍人なんて、」
「まあ、家庭の事情ってやつですかね」
「どんな事情だよ」
「はは、嬉しいなあ、私に興味を持ってくださるのですか?」
「うん」

 冗談めかして言った私に対して彼の返事があまりにも真剣だったから吃驚して横を見る。杉元さんは天を向いたままで、その瞳は星の光を受けてキラキラと輝いているようだった。

「…………」
「……俺、変なこと言った?」
「……そうですね」

 自覚がないとは厄介なことだ。杉元さんは自分の発言がいかに人の心を揺さぶるかをわかっていないらしくて「どこが?」と不思議そうに聞いてきた。きっとさきほどの返事に深い意味はないのだろう。そう思うとなんだか残念なような、ほっとしたような複雑な気持ちになった。杉元さんには大したことのない一言かもしれないけど、私にとっては大問題なのだ。両親が関心を持っていたのは【】であり、私ではなかった。私は【】を演じることで父と母の期待に応え、そしてそうすることで私は存在を許されていた。【】でない私に存在価値はない。誰かにはっきりそう言われたわけではないけれど、そんな空気を幼い頃から感じていた。杉元さんが知りたいのは【私】なのか、【】なのか。私のことだったらいいなあと思う反面、今の私はどちらなのか、自分でももうわからなくなっていた。それにこんなこと聞いたって杉元さんは何のことなのかわからないだろう。

ってあんまり自分のこと話さないから……少し気になっただけ」
「……杉元さんだって同じじゃないですか」
「そうだっけ?」
「そうですよ。金塊を探している目的も知らないし」
「……日露戦争で親友が死んだんだ。その嫁さんが目を患っているから、親友の代わりに俺が金を稼いで目医者に診せたい」

 想像以上に深刻な理由だったせいで、なんと言葉をかければいいのかわからず口を噤んだ。私が聞いてもいいことだったのだろうかと少し戸惑っていたら杉元さんがむくりと起き上がる。それをなんとなく目で追っていたら、彼の手が目の前に伸びてきて私の頬を遠慮がちに摘まんだ。

「あんた、いつからここにいたんだ?」
「え……覚えてないです」
「冷たくなってる。もう戻ろうぜ」

 差し出された手を握り、上半身を起こす。たしかに少し身体が冷えているようだ。春になったとはいえ、まだまだ夜はひんやりとしている。心配して探しにきてくれたのだろうか?自分にとって都合の良い想像が浮かんで頭を振る。今まで、こうやって私を迎えに来てくれる人はいなかった。そもそも私が夜一人で抜け出していることに気付いていた人間がいたかもわからない。星を眺めている間は余計な事を考えずにいられたからこのまま夜が明けなければいいのにと願ったものだが、杉元さんたちに出会ってからはそう思うことも殆どなくなっていた。いつの間にかここは私が私でいられる唯一の場所になっていたらしい。




「トッカリを仕留めた!みんな出てきていいぞ!」

 やりきった表情で隠れていた私たちに声を掛けたアシリパさんを、何とも言えない気持ちで見つめた。「トッカリ」とは、海のまわりを移動するという意味らしい。アイヌの言葉は私たち和人の言葉に訳すると身も蓋もない意味だったりすることが多くて非常に興味深い。アシリパさんがアザラシ解体ショーをしている傍で、キロランケさんからトッカリは日高ではカムイとして扱われていないが樺太の方までいくと海の神様として大切にされているという豆知識を聞く。何故か白石さんは私たちと距離を取り、その様子を遠巻きにして見ていた。

「アザラシの肉は血の臭いが強いけど、しっかり煮込むことで血が抜けておいしくなる。肝臓も肺も煮込んで食べる」

 解体したアザラシの肉を、浜辺で煮込む。アシリパさんは持っていた荷物から何かを探していたけど、急に「わああああ!!」と悲鳴を上げて後ろに倒れこんだ。

「どうしたの!?」
「プクサキナが…………去年採って干しておいたニリンソウが、もう無い……ッ」

 食を大切にしている彼女からしたら一大事なのだろうが……。悔しそうに大地を叩くアシリパさんを見て「え、そんなこと……?」と思っていたら白石さんが「オヤジがのっぺらぼうだって言われたときより落ち込んでるじゃねえか」と鋭いつっこみをいれた。こんなに動揺するアシリパさん初めて見たな。でもニリンソウ抜きでも十分美味だよ。

「みんな美味しいってよ、元気だせ」
「へっ」
「ニリンソウを入れたのも食べてみたかったですね~」
「……すまない……私としたことが、よりによってプクサキナを切らすなんて……ッ!」
「あ、いや……まあ仕方ないですよ」

 川の上流にあるという、アシリパさんの親戚が暮らすコタンを目指して進む途中、白石さんが札幌で聞いたという囚人の情報を改めて確認した。札幌の可愛子ちゃんによるとそれは中年の男だったというが、白石さんには覚えがないらしい。

「とにかく札幌の可愛子チャンが言うには……その男は日高へ行って、「ダン」という名のアメリカ人に会うと言っていたらしいぜッ!」

 白石さんの馬が急に走り出し、遥か彼方へ遠ざかって行く。

「……よし、行くか」
「えっ、白石さん……」
「コタンまであと少しだ」

 コタンへと到着した私たちがアシリパさんの大伯母さんに挨拶をしていたところに、白石さんが無事追いついたので私はほっと一安心する。ところが、お土産のトッカリのお肉と皮を見せた途端、大伯母さんが泣き出してしまった。母親から代々受け継いできたというアザラシの皮を使って作られた衣服を、義理の息子に売られてしまったらしい。白石さんには黙っているけど、先日の競馬で実は1枚当たっていて37円になっていたので、それを資金に買い戻すことになった。売った相手はこの近くで牧場を経営しているアメリカ人で、エディー・ダンという男らしい。もしかして、私たちが探している男と同一人物だろうか。早速みんなでその牧場を訪れると、通された客間の装飾がすごいのなんの。部屋の中は絵画や置物が所せましと並べられていた。なんといっても驚いたのは、敷物がシマウマのものということだ。これ土足で踏んで大丈夫なやつなのか?と躊躇っていたら、杉元さんたちはそんなことお構いなしにずかずかと踏みつけていたので私も恐る恐る踏みつけた。思ったより硬い、けど柔らかい。絨毯とは違うふわふわ感だ。日本へ来て25年になるというエディー・ダンさんは、私たちが買い戻しにきたそのアザラシの衣服をとても気にいっているらしい。

「事情は話したはずだ。そっちが払った30円は返す」
「30円?100円じゃなかったかなあ?」

 見え鋤いた嘘によってその場の空気が緊張感を孕んだものに変わり、隣に座っていた白石さんと目を合わせる。

「ダンさんよ。戦争ってどういう時に起こるか知ってるかい?舐めた要求を吹っ掛けられて、交渉が決裂した時だ」

 杉元さんのスイッチがいつどんな時に切り替わるのかは私にはまだわからない。だけど、アザラシの皮の服を返す気がないダンさんの態度がそのスイッチを入れてしまったのはわかった。このダンさんというアメリカ人も慣れているのか堅気ではないのか、殺気立った杉元さんに臆することもなく「モンスターを斃せたら30円でアザラシの皮の服を返そう」と言いだした。

「も……もんすたー?」
「いいから、さっさと、返せよオッサン」

 杉元さんが今にもダンさんに飛びかかるのではないかとひやひやしながら、持っていた刀に手をかける。杉元さん以外で武器を持っているのは私だけだ。キロランケさんは……爆弾を持ってきていただろうか。だが持っていたとしてもこの狭い部屋では使えないだろう。もし殺し合いが始まったら……私が止めるしかない。そんな私の心配も突然部屋へ乱入した男によって杞憂に終わる。

「エディーさんッ!また出ました!!たった今、馬の悲鳴がッ!!」