「デートしてくれないか、」
「え……どうしてですか」
その顔はあまりにも穏やかで、穏やかすぎて、私たちの置かれている状況が現実とは思えないほどだった。少しだけ細められた明るいブルーの瞳が私を見下ろしている。優しそうに見えて意思の強い、彼の大好きなところのひとつだ。私が目をぱちくりさせながら聞き返すと、エルヴィン団長はふっ、と笑った。
「デートするのに理由がいるのかい」
「いや、だって……こんな状況で」
「今じゃないとだめなんだ」
団長は一瞬だけ険しい表情を浮かべたがすぐに元に戻り、私の手を取って歩き出した。どこへ行くんだろう?こんな、壊れた世界でデートだなんて……。困惑しつつなすがまま連れてこられたのは壁の上。デートにはちょっとデンジャラスすぎやしないだろうか。人間の前ならまだしも、巨人に監視されながら愛を語らうような偏った趣味は私にはない。それに、間違って下に落ちればそこには巨人たちがいる。いくら立体機動装置があるとはいえ、100%安全じゃないのは私にだってわかる。団長は私になにかを見せようとしている?連れてこられた意図がわからず、隣を歩く団長を見上げた。相変わらず読めない表情をしている。
私は調査兵団第13代団長としての「エルヴィン・スミス」を知らなかった。外側の私たちに聞こえてくる彼の噂は決して良いものではない。エレン・イェーガーの巨人化能力が発覚してからは特にだ。だから私は彼に直接会うまでエルヴィン・スミスとはどんな恐ろしい男なのだろうと想像していたのに、物腰の柔らかな、いかにも紳士的といったような風貌をしているこの人物がそうだと知ったときはしばらく信じられなかったほどだ。数多くの兵士を犠牲にしてそれでも作戦を完遂しようとする団長は、きっと兵士としてのあるべき姿なのだと思う。けれど世間一般の認識は必ずしもそうではない。彼は人の死をなんとも思わない、冷酷非道な男なのだと。本当にそうなのだろうか?団長としての彼を知らない私には否定も肯定もすることができなかった。そしておそらく今後も彼のことをなにも知らないまま終わるのだろう。
「どうかしたか?」
あまりにもまじまじと見つめていたので当然といえば当然だが、視線に気づいた団長が尋ねる。
「そんなに見つめられると、さすがに照れるな」
「いやあ、デートっていうからもっと、おしゃれなレストランでも連れて行ってくれるのかと」
「すまない、今日はこれで勘弁してくれないか」
「……別に、嫌っていうわけじゃ、ないですけど」
「私はとならどこだって構わないんだが」
「普通の女子にデートって言ってこんなところ連れてきたらたぶんフラれますよ、団長」
「ははは、それもそうだな。でも、はそうしないのかい?」
「十分ドン引きはしてますが……」
「今日だけでいいんだ。もう少しだけ、付き合ってくれ」
再びゆっくりと歩き始めた私たちは、ぽつりぽつりと世間話をした。生きのいい新兵のことだとか、内地の様子だとか。まるで壁の破壊なんてなかったあの頃みたいに。平和だと勘違いしてしまうようなどうでも良い話ばかりした。けれど団長の方を見たら嫌でも目に入る壁下は、もう人類が住める領域ではなくなっている。崩れかけた家屋に、マッチ棒みたいに転がる木。たった数年前まではたしかに人類が生活していた。なのに、今は、屋根の隙間から歩き回る巨人たちの頭が見え隠れする危険地帯になっている。こちらに気付いているのかいなのか、遠くの方で4メートルほどの巨人がとぼけ顔で上を向いていた。私は生まれも育ちも内地だから、実際に壁が破壊される場面に出くわしたわけでも、なにか直接被害を受けたわけでもない。それでもこの光景を目の当たりにするとどこからかこみ上げてくるものがある。
「どうして私たちは……人類は……巨人に蹂躙されないといけないんですか」
エルヴィン団長にぶつけたところでどうしようもない疑問と怒りが、口をついた。好きな人と、ゆっくりデートもできない世界なんて。
「そうされないために、私たちは壁外へ行くんだ」
「死ぬかもしれないのに」
「調査兵団へ入る時から覚悟はしているよ」
「私が行かないでって言っても?」
ずっと我慢していた台詞を吐いてしまえば、後悔とともになにかすっきりした気分にもなった。団長は少し驚いたように目を見開いている。面倒くさい女だと思われたかもしれない。でも、今言わないとそれこそ後悔しそうだと思った。団長と同じだ。
「愛しているよ、」
「それじゃあ答えになってないです」
「君を愛しているから、私は壁の外へ行くんだ」
「意味がわかりません」
ガチのマジで意味が分からなくて、きっとそういうシーンじゃないのだろうけど私は思い切り怪訝な顔をした。いや、この人の考えていることが読めた試しなんて、そう多くもないのだけど。エルヴィン団長はじっと私を見つめた。答えの代わりとでもいうように、繋がれている手にぎゅっと力がこもる。毎日のようにブレードの柄を握り、巨人を削ぐ訓練を重ねてきた大きな掌は鋼みたいに固い。懐かしいなあ、私も訓練兵時代は豆がつぶれて血まみれになりながら訓練したっけ。なんの志もなくただ死にたくないと思って選択した駐屯兵団に入ってからは忘れていた感覚だ。彼は今も兵士であり続けているというのに。
「……私を置いていくんですか」
「君が調査兵団じゃなくて、本当に良かった」
「私は少しだけ後悔してます。……調査兵団を選んでいたら、もっと早く団長と出会えたのに」
「名前を呼んでくれないか」
「エルヴィン、さん」
「……ありがとう、」
「次はちゃんとおしゃれなレストランに連れてってくださいよ。だから、」
団長の右袖が風で激しく揺れるのを後ろから見ながらそう呟く。その声が届いたのか、エルヴィン団長は私に優しく微笑んだ。ああ、それは私の欲しい返事ではないのです。
あなたが生きたこの世界を、あいしている。あなたの好きなこの歌を、そのときまでうたってゆく。: :ハイネケンの顛末
2025/09/14