「ちょっと二階堂さん!服を脱ぎっぱにしないでください!ちゃんと畳んで!」
「だっての方が畳むの上手だし」
「え……そ、そうですか……って、おだててもだめですよ!」
「チッ……」
「ちゃーん、僕のてぬぐい知らない?」
「はいはい、ここにありますよ」
なにかがおかしい。旅館の一室を慌ただしく歩き回りながら、は頭の片隅で微かな違和感を覚えた。
ここは登別。軍の療養地となっているこの登別温泉には、今でも日露戦争で負傷した兵士たちが傷を癒すために滞在している。そのひとりである菊田特務曹長の回復具合を伺うため、そしてこのところ立て続けに怪我を負っている二階堂の療養も兼ねて、宇佐美、二階堂が登別へ派遣された。はそのおまけである。ゆっくり温泉に入れる!と彼女が浮かれていたのは最初のうちだけで、気付けばこうして宇佐美たちの世話に奔走していた。唯一の救いといえば現地組の菊田や有古が真面目人間であるおかげで負担が2人分だけで済んでいることだ。滞在数日目にして日常茶飯事となりつつあるそのドタバタがひと段落ついたは、茶を淹れている最中に「あれ、私なにしに来たんだっけ……?」とふと我に返って手を止めた。視線の先には菊田が新聞を広げている。動きを止めたに気付き、菊田も顔を上げた。図らずも見つめ合うかたちになり、なにか言わなければとが話題を探しているうちに菊田の方から口を開いた。
「は温泉に入らないのか?」
「あ、はい……宇佐美さんたちが帰ってきたらにしようかと」
「余計なお世話かもしれないけどな。あんたがあいつらの面倒見る必要ないだろ?」
「……まあ、それはそうなんですけど」
は苦笑しながら白い湯気が揺れる湯呑みを菊田の前に差し出す。
最初は二階堂の手伝いから始まった。彼は右手右足をそれぞれ失っている。もともと器用なのか今では身支度もそれなりの速さでこなせるようだが、それでも時折何度やっても上手くいかず、釦を掛け違えたり帯革を付けるのに手間取っていた。と二階堂はこれまで特別親しくしていたわけではない。しかしそうやって苦労しているのを目の当たりにしまうと元来お人よしであるには放っておくことができず、ついつい手を貸してしまったのである。二階堂が必要以上にを頼るようになったのはその日からだった。ある時は「義手を付けるの手伝って」と甘えたようにせがまれ、またある時は「軍服の釦できない」と泣き言を言う。まるで大きな弟ができたようだと苦笑しながらも、強く拒絶するのは躊躇われた。別に後悔をしているわけではない。波瀾万丈があったゆえに少しだけ言動の幼い二階堂から純粋に感謝の言葉を掛けられれば案外悪い気もしないものである。便乗してくる宇佐美の方も無理難題を言うわけでもなく、せいぜい「手ぬぐい取って」だとかそんなちょっとした身の回りのことを言いつけてくるだけだった。それがいけないのだろうか、とは自身を顧みる。現在その2人は広い大浴場でくつろいでいることだろう。菊田の相棒的存在である有古の方も、今日は知る人ぞ知るというアイヌの秘湯へ足を延ばしている。客室には菊田と。彼に湯呑みを渡して、はようやく自分の茶を注ぎ始めた。
「ま、俺も他人のことをとやかく言えないけどな。こうやってに茶を淹れてもらっているんだから」
「いえ、これくらいお安い御用ですよ」
小さく笑いながら熱々のお茶に口を付ける。ちょうどいい渋みが口内に広がり、それをゆっくり飲み込むと息を吐いた。嵐が去ったあとに訪れた静けさなのか、はたまた嵐の前の静けさか。ともかく、今彼女の時間を奪う者は誰もいない。あと2時間もすればまた忙しくなるだろう。それまではゆっくりさせてもらおうとは足を伸ばした。そんな気の抜けたを見て菊田が目を細める。
「自分で断りづらいなら、俺から言ってやろうか?」
「え……」
「宇佐美と二階堂だよ。下女じゃあるまいし、適当なところで切り上げないとあいつら調子に乗るぞ……いや、もう乗ってるか」
「でも正直嫌いじゃないんですよ、世話を焼くのって。それにほら、やることがないと落ち着かないっていうか」
「だからって、保養所に来てまで疲れるほど動き回るなんざ本末転倒だろ」
たしかに。正論すぎてぐうの音もでない。が薄々感じていた違和感の正体はこれだった。鶴見の厚意で温泉に同行したはずがいつの間にか他人の世話ばかりしている。
「……あ、じゃあちょっと背中貸してもらえますか?」
なにかを思いついたが菊田と背中合わせに座って彼の方へぐぐっと体重を預ける。彼の広く大きな背中は、一人程度の体重ではびくともしない。部屋の隅から掛け布団を引っ張ってきたは完全に菊田の背中で寝る体制を整えてしまった。
「おいおい、寝るなら布団にしておけよ。疲れも取れないぞ」
「いいんです!こっちの方が温かいし」
「いや、絶対布団の方が暖かいだろ」
菊田が苦笑すると、彼の横隔膜が動くのに合わせての体も小刻みに振動した。心臓の音は人を落ち着かせるというけれど、背中同士をくっつけていても同様の効果が得られるらしい。相手が菊田だから猶更そう思うのかもしれないとは思案する。
「宇佐美さんと二階堂さんは菊田さんの部下ですよね?じゃあ二人の代わりに菊田さんが私にお返しする……ということでどうですか?」
「どうですかって……俺は構わんが、こんなのでいいのか?」
「はい、十分です」
「欲のないやつだな」
「そんなことないですよ。……ずっと機会を伺ってたんですから」
「……スマン、よく聞こえなかった。なんだって?」
「独り言です」
聞こえなくてよかったとは心の中で安堵する。ため息からですらそれを気取られそうで、一瞬呼吸を忘れた。
「……ってすみません、菊田さんの傷に触りますよね」
「いや、お前ひとりを支えるくらいどうってことないさ」
その頼もしい台詞を聞いたは「じゃあ遠慮なく」と目を閉じる。ほら、こっちの方が暖かい。背中にじんわりと広がる心地よい体温はを微睡へと誘っていった。
***
「そろそろアイツら帰ってくる頃じゃないか?」
菊田が呟いたがからの反応はなかった。その代わりすうすうと微かな寝息だけが聞こえてくる。本当に寝てしまったらしい。やれやれ……と心の中で呟き、菊田は起こしてしまわないよう注意を払いながら彼女を抱き上げて布団の上に寝かせる。の顔に掛かった髪を指でそっと除けるとくすぐったそうに顔を歪めた。
「役得……ってやつだな」
ふっと笑いながら煙草を咥えようとして、手を止める。そのまま彼女の無防備な寝顔を眺めていると遠くから複数の足音が近づいてきた。しじまが終わろうとしている。
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果たしてこれは労わられているのでしょうか・・・?とドキドキしつつ、この度はリクエストを頂きありがとうございました!
クリスマスの超短篇で書いたきりだったのでちゃんと菊田さんになっているかちょっと不安ですが、書けて嬉しかったです!優しくておちゃめで常識人で包容力もあるって、もう好きになる要素しかない!二丁拳銃もめちゃくちゃかっこいいですよね。
余談ですが夢主さんのことを苗字で呼ばせるか下の名前にしようかで本編よりすっっごく悩みました(笑)。