誰の痕跡もないまっさらな雪の上にせーので背中から倒れこむ。水たまりに薄く張った氷をぱりぱりと踏み割るような、新品の石鹸を下ろしたときのような、そんなある種の快感に包まれた。ふんわりと降り積もった分厚い雪は私の全体重を受け止めて沈んだ。視界には空と太陽と兵舎の一部だけが映っている。雪はすべての音をかき消す。生き物の気配すら隠してしまう。あの木造の建物の中ではこうしている間にも誰かが絶えず歩き回っているはずなのに、怖いくらい静かだ。こんなに静かなのはいつ以来だろう。しばらく目を閉じて耳に煩い静寂を堪能していると、さく、さく、と雪を踏みしめる音がだんだんとこちらへ近づいてきた。それが自分のすぐ横で止まっても、私は目を開けずにじっとしている。ここは兵営の敷地内だ。つまり出入りできる人間は限られている。そしてこんなフリーダムな状況を見つけても叱るどころか声ひとつあげないことから、一人、ないしは二人の該当者を思い浮かべた。



 太陽と私の間に男が割り込んできた。目を閉じていてもわかる日差しの眩しさが遮られ、一気に暗くなる。少し不明瞭で、ぼそぼそとした低い声。その一言だけで彼ら双子がどっちかを聞き分けられる名人技など持ち合わせていない。……そういえば浩平は今日鶴見中尉の命令で出かけると言っていた。それを思い出した私は勝利を確信した。

「……洋平」

 ゆっくり目を開けてから噛みしめるように名前を呼ぶ。洋平。洋平。なんてことない、どこにでもある普通の名前だ。それなのに声に出す度、耳で聞く度、特別なものに感じる。胸に言いようのないなにかがこみ上げる。実際、この4文字は私にとって大切な名前だった。何度も失って、でも認めたくなくて、そしてようやく取り戻したもの。

「なにしてんだ?」
「今日は天気が良いから、日向ぼっこ」
「だからって雪の上に寝てたら冷えるだろ。風邪引くぞ」
「コートがあるから少しくらい平気だよ」

 しゃがんだ洋平が私の頬を自身の手でぴたりと包んだ。おそらく直前まで室内に居たのだろう。ひんやりと冷えた私の頬に彼の掌の温度が伝ってくる。平気と言ったものの体はすでに冷え切っていて、洋平の手が燃えるように熱く感じた。じんわりと、体温が染み込んでいく。私はそれに自分の手を重ねた。

「洋平って、意外と綺麗な手してるよね」
「……全然嬉しくねえ」
「えー、私だったら嬉しいけどなあ」
「綺麗とか、男に使う形容詞じゃないだろ」
「そうかな……鶴見中尉とかも綺麗だと思うけど」
「……お前の感性は独特すぎてついていけねー」

 それを言うなら二階堂兄弟の嗜虐性だって理解に苦しむのだけど。彼ら双子に比べたら、私が洋平の手や鶴見さんを綺麗だと思うことにさほど特殊性はないように思う。ましてや鶴見さんなんて熱狂的なファンがいるくらいだし。私に同意してくれる人はきっと少なからずいるはずだ。最低でも2人は確実だろう。

「私は好きだよ、洋平の手」
「手だけかよ」
「なにそれ」

 手に嫉妬してるのかと思うとちょっと可笑しくて吹き出した。可愛いところあるんだな。洋平の癖に。なんて思っていたら洋平が私の顔の横に手を付いて、地面と彼の間に挟まれた。徐に顔が近づいてきたので先を想像した私はそっと目を閉じる。近づいた洋平の気配は正面から逸れて、代わりに耳に暖かいものが触れた。

「いっ……たっ!」

 次の瞬間耳にビリっとした痛みが走り、私は反射的に洋平を押し退けて飛び起きた。

「なにしてるの!?」
「味見」
「いや意味がわからないんだけど」
「……しょっぱいだけであんまり美味くないな」
「勝手に味見しといて文句言わないでよ……噛まれ損じゃん」

 ていうか、普通噛み千切るほど強くかじるか?耳なくなったかと思った。真顔の洋平は反省したのかそうでないのか、自分がかじった箇所を指で撫でた。この男、なにも考えてないな。だからこそ容赦なく噛みついてきたのだろう。歯形付いてたら嫌だなあ、なんて思いながらそのさわさわとくすぐったい感触と痛みに耐える。どくんどくんと、心臓とシンクロして耳も鼓動していた。

「赤くなってきた」
「そりゃ洋平が思いっきり噛んだからでしょうが……」
「痛かったか?」
「当たり前でしょ!」

 滲んだ涙を拭いながら抗議の声を上げたが効いている気はしない。それどころか「ふうん」なんて他人事のように呟いてる様子から、そもそも耳にすら入っていないのかもしれない。かじられた耳を自分でも触ってみると指先にわずかな凹凸を感じた。うわ、やっぱり歯形付いてるかも。痛みを紛らわせるため、私はその辺の雪を少量掴んで患部に当てた。急に味見だなんて、一体なんのつもりなんだか。

「どうせ味見するならこっちにしてよ」

 洋平の手を取って自身の口元へ誘導すると、僅かに目を見開いた。あれ、思ってた反応と違う。

「お前、そんなに俺のこと好きだったのか?」
「…………うん」
「……」
「……ちょっと!恥ずかしくなるから黙らないでよ!」

 いつもの調子で揶揄われるかと思ったが予想に反して洋平が無反応なものだから、言い出しっぺのくせに羞恥心に耐えられなくなった。慣れないことはやるもんじゃない。もう二度とやるもんか。洋平への気持ちは間違いなく本音だ。好きでもない男を命がけで守ろうと思うほど私は強くもないしお人よしでもない。でもこうしてはっきり言葉にしてしまうとどうしても恥ずかしさの方が勝るものだ。彼の薄い反応が更に拍車をかけている。いや洋平に反応を期待するのがそもそもの間違いな気もするけれど。後悔とともに顔が熱を持っていく。耳どころの話じゃなく、今、私の首から上は満遍なく真っ赤に染まっていることだろう。鏡を見なくてもわかる。その原因である洋平を悔し紛れにじろりと睨んだら、彼が両手で私の顔を包み込んで今度こそ唇同士が重なった。予想外すぎて今度はこちらが目を見開いた。

「照れるくらいなら言うな」
「洋平がそう言ってほしそうだったから」
「つか、目瞑れよ」
「洋平が急にするから」
「……じゃあ、もう一回やるから目閉じろ」
「え、ちょ、まッ……!」

 いつの間にか背中に腕が回されていて回避不能。ほんといつも強引だな。なんて呆れながら満更でもなかったりする自分がいる。本気で抵抗するつもりなどはなからない私は素直に目を閉じた。……と油断させておいて反撃するのもアリかもしれない。そんな不穏な考えが頭を過ったがそれはまたの機会にしておこう。

あれ?これ壁ドンじゃなくね・・・?と気付いたのが完成してからだったのでアップしてしまいましたが、NGでしたらどうぞ遠慮なくお申し付けください!
二階堂くん良いですよね!私も原作やアニメを観る度に新しい二階堂くんの一面を発見してずぶずぶと沼底へハマっていってます。
この度はリクエストありがとうございました!