さんはなにか怒っているのだろうか。
いつものように世界堂へ足を運び、が淹れた茶に口を付けた三島は、彼女から漂うなんともいえない微妙な雰囲気に困惑していた。先日の一件で、わだかまりは多少解消したものだと思っていた。だからこそ三島は安心してまた彼女に会いにきたわけだが、当の本人はどこか不機嫌そうな表情を滲ませて彼を待ち構えていた。「怒ってる?」などと率直に聞いてしまうのもどこか稚拙な気がして三島はきまずさと一緒に茶を啜る。は相変わらず三島をほったらかして読書に耽っていた。
何気なく見遣った机の上に本とは違う大判の冊子があることに気づき、三島はそれをじっと見つめる。本以外が積まれているなんて珍しい。
「さん、これは?」
「……釣書」
「え?……さん、見合いするのか」
「この間、近所の佐藤さんに、三島さんのことを聞かれたんです」
「うん?」
「恋人なのかって」
「……なんて答えたの?」
「もちろん否定しましたよ。でもそう言ったらそれを渡されて、一度会ってみてほしいって」
いっそ肯定してくれても良かったのに。三島はそんな台詞を飲み込んだ。が小さく息を吐いて釣書を開く。
「これってやっぱりお見合いなんでしょうか?」
「……まあ、これを見る限りそうだと思うよ。この写真も明らかに気合入ってるし」
は憂鬱そうに目を伏せた。少なくとも乗り気ではないらしい。今日のがどこか不機嫌なのはこれが原因か、と三島は合点がいく。
「でも結婚したら、小樽を離れないといけないから……」
「遠いの?」
「東京です」
「やっぱりさんも、寂しい?」
「いえ、私じゃなくて……父が寂しがるかと思って」
三島はひっそりと落胆する。三島と会えなくなるのが寂しい、などと彼女が言うはずもないことなんてわかっていたのに、それでもほんの少しだけ期待していた。三島は複雑な心境で見合い相手の釣書を盗み見た。由緒ある家柄に華々しい経歴が綴られている。三島にはないものばかりだ。写真の中の男は堂々と胸を張り、自信に満ち溢れているのが伝わってきた。彼女の中で自分の存在はどれほどなのだろうと三島は思案する。訪ねるたびこうして茶をごちそうしてくれる点から見れば少なくとも嫌われてはいないだろうと推測できるものの、は嫌だとか、そういった強い拒否や否定の言葉をあまり使えない性質のようだった。突然舞い込んだこの見合い話と同様に、自分のことももしかしたら断り切れないだけで歓迎されているわけではないのかもしれない。三島が世界堂へ通うようになってひと月。未だにの本心は見えてこなかった。
「じゃあ、さんを嫁にもらうなら北海道に住んでいないとだめか」
「ご縁があればの話ですけどね」
「あるだろ?」
「……あるように見えますか?」
「ほら、俺とか」
「……」
なんでもないようにそう言った三島を、は無言で見つめる。彼が本気で言っているのか確かめるように。次の瞬間「冗談だよ」と笑うのを待っているように。だがしばらく見つめあっても三島の口は閉ざされたまま、穏やかに彼女を見つめていた。普段なら気にならないはずの沈黙に耐えきれず、の方からそれを破る。
「……やっぱり三島さんて、変わってます」
「さん」
三島からの真剣な眼差しを受けての頬が僅かに赤く染まった。気まずそうな、困惑した表情を浮かべて顔を逸らす。三島はほのかな熱を持ったその頬に手を添えて自分の方へと戻した。
「俺はさんに見合いなんてしてほしくない」
「……でも、佐藤さんが」
「恋人がいるから、って断ればいいだろ?」
「そ、そんな人いません……」
「……じゃあ、俺を候補に入れといて」
「……」
「嫌?」
「…………ずるい、ですね」
なにが、とは三島は聞かない。嫌いな男に頬を触れられてこんな反応などしないだろう、という自信があった。そもそも嫌われてはいないという前提があっての行動だったが、どうやら三島の読みは当たったらしい。そう、少なくとも、は三島を嫌っていない。初対面を思えばすごい進歩だ、と三島は感慨深くなる。は赤い顔のまま少し不服そうに三島を見上げていたが、その視線が三島の向こうにある時計に移った。
「三島さん、時間大丈夫なんですか?」
良いところだったのに……内心舌打ちしつつも、に促されて三島は店内の掛け時計を振り返った。――もうこんな時間か。最近、滞在時間が日に日に伸びているような気がする。もちろん市中の見廻りは立派な仕事だが、わざわざこの兵営から離れた区域の担当を希望していることに思惑がないわけではない。ここからなら帰営が多少遅くなってもなにも不自然ではないし、ほかの兵隊に見られる心配もほとんどない。そういった意味では、チトがこの世界堂を路地裏に移転したことは結果的に三島にとって好都合だったとも言えた。今から帰れば夕食には余裕で間に合う。三島は膝に手を置いて立ち上がった。チトは三島の軍帽を取って立ち上がった彼に差し出す。このやり取りもいつからか当たり前になったが、どこか夫婦のようで三島には気恥ずかしくもあった。チトの方は相変わらず無表情なところを見るに、そういった感情は抱いていないようである。チトの手には触れないように軍帽を受け取った三島は「ありがとう、チトさん」と呟いて頭に載せる。
「そうだ。見合いっていつ?」
「……今週末です」
「じゃあ、潰しに行かないとなあ」
「え……」
三島は台詞の物騒さと裏腹にさわやかな微笑を残して去っていった。
青息吐息
2026/02/03