「こんにちは、ちゃん」
近所に住む老婆が顔を出し、はぺこりと頭を下げた。内心、少しがっかりしている。三島が出入りするようになってから、は彼の姿を待ち侘びるようになった。「陸軍は嫌いです」などと現役兵に対して失礼なことを言い放っておきながら矛盾していると思う。あれから1週間ほど経って三島が姿を見せないのはそのせいなのか。それともただ忙しいだけなのか。罪悪感と自身に対する嫌悪感が胸中に渦巻いて本の内容がまるで頭に入ってこなかった。
「ちゃん、具合でも悪いのかい?」
「……いいえ、少し考え事をしていただけです」
いつの間にか老婆は一冊の本を手にのそばへ来ていた。その本の説明を求められ、簡単に内容を伝えると満足したのか購入して店を出て行った。扉が煩く鳴くとたちまちは一人ぼっちになる。しんとした空気が耳に煩い。どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと後悔の念を抱きながら、最近では三島の定位置となっていた場所を無意識に見つめた。もしもあの台詞を心に押し留めることができたら、彼は今日もここで自分の茶を飲んでいたかもしれないのに。心がざわざわして気持ちが悪い。……今日はもう、店じまいしてしまおう。は一度息を吐いてから立ち上がった。鍵をかるために扉へ近づくと、すりガラスにふと人影が映る。より頭一つ分ほど背の高い、やや大柄な男性。気づいたときには「三島さん」と声に出ていた。扉の開く煩い音も、相手が三島だと思うとあまり気にならない。開けてすぐそこにが居たことに驚いたのか、三島が一瞬目を見開く。
「こんにちは、さん」
「……こんにちは、三島さん」
すぐに以前と変わらない、優しい微笑みがに向けられた。どうしてか彼の笑顔はの心を少しだけ温かくさせる。名残りの雪が春の柔らかい日差しに照らされて融け出し、そのまま大地へ還っていくような穏やかな気持ちに包まれた。
「出かけるところだった?」
「いいえ。今日はもう店を閉めようかと思っていたのですが」
「そうだったのか。じゃあ、おいとました方がいいかな」
「……構いませんよ。三島さんは、お客さんですから」
冷え切った店内は陽が差したように一気に温かく感じられた。三島は当然の如く定位置に腰を下ろす。読みかけの本が積み重ねられた帳場の隅、の座るはす向かい。担いでいた小銃を下ろし、店内をぐるりと見まわす。そうしているうちにが淹れたての茶を持って奥から戻ってくる。三島はそれに口を付けると決まって一言「美味い」と呟くのだ。もはや日常となったその光景に、は薄っすら口元を緩めた。三島の見ていない一瞬のことだった。
「三島さん、この前はすみませんでした」
「え、なにが?」
「私……とても失礼なことを言ってしまいました。三島さんを傷つけてしまったんじゃないかとずっと気になっていて」
「ああ……いや、良いんだ。俺も急に変なことしてごめん」
は彼の言う「変なこと」を思い出し、ほんのりと頬を紅く染めた。嫌ではなかったと、都合よく捉えていいのだろうか。三島は彼女の反応に淡い期待を抱く。あの時のようにもう一度手を握ってしまおうか、そう考えてそわそわしながら三島は湯呑を手で包んで冷えた手先を温める。
「……私、軍人さんがあまり好きではないんです」
突然が口を開き、三島もそちらを向く。は再び口を噤んだ。三島が「うん」と静かに相槌を打つ。
「父が日露戦争に出征して、戦死しました。だから、三島さんの着ている軍服を見ると……嫌でもそれを思い出してしまって」
の父は後備兵として召集され、戦死した。詳しい死に様はわからないという。骨の1本すら残っていない。そのことがの心にしこりを生んだ。もしかしたら命からがら逃げ延びて、まだ満州にいるのかもしれない。死んだというのは誤報で、怪我が治らずまだ入院しているのかもしれない。記憶を失って、家も家族も思い出せないだけかもしれない。第七師団が北海道へ帰還したと聞いて、は父を探しに旭川の司令部や陸軍の保養所を訪ね歩き、父の故郷へも足を運んだが一切手掛かりを掴めず小樽に戻ってきた。街で北鎮部隊を見かけるたび父の面影を探した。そしてあるときぷつりと、探すのをやめた。極力軍服を目にしないよう、父の残した「世界堂」も表通りから今の路地裏に移転させた。は本の世界に引きこもることで現実から逃げたのだ。そしてようやく落ち着いた頃に訪ねて来たのが三島だったのである。あの日、三島を一瞬だけ父と見間違ったことを思い出す。
は一点を見つめて淡々と語る。そうしないと今までなんとかせき止めていたいろいろな感情が全部流れてしまいそうだった。
「三島さんも、出征されたんですよね」
「うん」
「……それなのに、ごめんなさい。一番辛いのは、戦った軍人さんたちなのに」
「さんはなにも悪くないよ。待つ側が辛いってことは、俺もよくわかっているから」
「……ありがとうございます、三島さん」
それでもの顔からは悲壮感は消えず、消えていなくなってしまいそうなほど儚く思えた。三島は「妻と子供を内地に待たせているのが辛い」と、日露戦争の最中に古年兵の誰かが嘆いていたことを思い出す。涙を堪えながら「いってらっしゃい」と送り出す妻、なにもわかっていない無邪気な顔で手を振る幼い子供。その光景が脳裏に焼き付いて離れないという。当時の三島には彼の心境はあまりピンと来なかったが、まさか終戦してから知ることになろうとは思いもよらなかった。もしも自分に家族があったなら。そしてその家族がのように悲しそうに自分を見送ったなら、きっと自分もあの古年兵のように脱走したいほどつらく寂しく不安な気持ちになったことだろう。の震える肩をゆっくり擦りながら、三島はそんなことを考える。
「お父さんのこと、俺の上司に聞いてみるよ。あの人は……その、顔が広いから、もしかしたらなにか知ってるかも」
「いえ、いいんです。もう、きっぱり諦めます」
「……さんは、本当にそれでいいのか?」
「……はい」
そもそも、手掛かりをすべて当たってそれでもだめだった時点で諦めていたはずだった。死んだという目に見える証拠はないけれど、生きている証拠もない。三島と出会ったのはいいきっかけだったのだろうと、は自分に言い聞かせた。
「……さん」
「はい」
「またこうやって会いに来てもいい?」
「もちろんです。こんなところに通ってくれるのは三島さんくらいですから。大切なお客さんです」
……まあ、今はそれでいいか。三島は彼女の言葉に前途多難な未来を感じつつ頷いた。
懸崖撒手
2024/01/03