「こんにちは」
「……どうも」
三島が軍帽を取り会釈すると、彼女も手元はそのままに視線だけで答える。が自分のことを憶えているか少し不安だったが、本人の反応を見てもそれを読み取ることはできなかった。憶えているゆえの簡素な挨拶のようにも思えるし、誰にでもする当たり障りのない対応ともいえる。さすがに数日前に話をしたばかりの人間を忘れるなんて……と笑い飛ばしたい三島だが彼女の場合絶対にありえないとは断言できそうにない。
三島の予想に反して、は読書をしていないようだった。細筆を執り、なにかを書きつけている途中だったらしい。
「残念ですが、なにも新しい情報はありませんよ、兵隊さん」
「いえ、今日は客として来ました」
は三島の服装をじっと見つめた。どこからどう見ても陸軍の制服に装備一式を背負っている。三島はその怪訝な視線に気付いて「仕事の合間です」と付け足した。それ自体は決して嘘ではない。この地域へは歴とした任務で訪れていた。しかし任務といえども休息だって必要だ。自分自身にそう言い訳する。
「たしか、本はあまりご興味がないと仰ってませんでしたか」
「ええ……でも、この店は、その……とても、居心地が良くて」
「……兵隊さん、変わってらっしゃいますね」
「三島です」
「……三島さん」
たしかめるようにが呟くのを見て三島は苦笑を零した。名前を憶えられていないのは残念としか言いようがないが、自分が本にあまり関心がなかったように、彼女は他人に興味がないように見える。恐らく記憶力の問題ではなく、単に名前を覚える気がないのだろう。それに、一度名乗っただけでは無理もないのかもしれない。ましてや一般人から見れば三島もただのいち陸軍兵士でしかないのだから。きっと二度と会うことはないと思っていたのだろう。そう考えれば名前を憶えていないのにも得心がいく。
客として、と言った通り、三島は狭い店を周って書棚をひとつひとつたしかめていった。三島はあまり読書をしない。稀に仲間内で雑誌を読みまわすようなことはあるが、じっくりと1冊の本を熟読するようなことはなかった。三島は初めてそれを後悔した。立派な装幀を見ていると、彼女と自分の読書量がそのまま心の壁となっているように思えてくる。読書を始める理由が不純すぎてとても人には言えないが、結局そうである事実は変わらないな、と自嘲する。今から読書家を目指したところで彼女の足元にも及ばないのは承知の上だ。それでもなにかのきっかけになることを心の底で期待しながら、背表紙をなぞっていく。
初日に気付いた通り、この古本屋では陳列に対してのこだわりは皆無らしい。読書に馴染みのないせいだろうか、雑多で膨大な本を前にした三島は早くも選定に挫折しかけていた。いっそのこと適当に目についた1冊に決めてしまおうか。それとも、目を閉じて手に触れた本にしてしまうか。自棄になりそうな気持をぐっとこらえて、三島はを振り返る。俯いた姿勢で書き物を再開しているは、自分に視線が注がれていることになどまるで気付いていない。三島が名前を呼びかけるとようやく顔を上げた。
「お決まりですか」
「いや、実はなにを選んで良いのかさっぱりわからなくて……ひとつ見繕ってもらえませんか?」
「わかりました」
こくりと頷いたは立ち上がって狭い店内をぐるりと一周する。その間に時々立ち止まっては書棚へ手を伸ばし、本を取り出してまた歩を進めた。やはりきれいだと三島はその様子を無意識に目で追う。顔の見目の話ではない。本と向き合う真剣な表情、たおやかな動作には独特な美しさがあった。それらはあくまでも本だけに向けられているもので、の視界には本以外なにも映っていないことがよくわかる。だからこそ彼女に惹かれるのかもしれない、と三島は自分自身をそう分析した。
やがて三島のもとへ戻ってきたは6冊の本を抱えていた。種類もバラバラで、表紙を見る限り比較的新しめの本ばかりに見える。三島は一番上の1冊を手に取ってぱらぱらとめくる。一昔前に話題になった物語小説だ。上から順にそうやって内容をたしかめている間に、は暖簾の奥へ消えていった。ほどなくして水が跳ね、陶器の鳴る微かな音が三島の耳へと届く。外で囀る鳥の声にも簡単にかき消されてしまうほど小さな彼女の気配に耳を澄ませながら、三島は古びた本に軽く目を通していった。
「どうぞ」
緑茶の香りに三島が顔を上げると、目の前に湯呑が置かれた。はすでに定位置へと座り直し、中断していた書きつけを再開しようとしている。
「すみません、お邪魔してしまったようで」
「お客様なら邪魔ではありません」
は三島の方など見ず、そっけなく返す。それはきっと紛れもない本心なのだろう。
「、さん、は……本がお好きなんですね」
「……はい」
「これは、どういった理由で選んでくださったのですか」
三島は自身の目の前に積まれた本を指す。そこでようやくは筆を置いた。真っすぐな視線が三島に向けられたかと思うと、一呼吸置いて彼の手元へ落ちる。
「普段あまり読み物はなさらないとのことでしたから、できる限り偏りのないように幅広く選びました。物語小説は書き手によって癖がありますのでお好みには合わないかもしれませんが一応入れておきました。少し前に流行したものですがご存知ですか?……それとも、兵隊さんならもっと学術書を多くしておくべきでしたでしょうか。あ、それから、西洋史も今は色んな翻訳者がおりますので、読み比べてみるのも面白いかと思います。これはわかりやすいと評判になっていたものでして――」
のべつ幕無しに説明するのを三島は呆気に取られながら聞いていた。やがてそれに気づいたがはっとして「すみません」と呟く。本が関わると人が違ったみたいだ。相変わらず無感情そうな瞳もどこか生き生きとして見える。
「そんなにいろいろ考えてくれてたんですね」
「……ええ、まあ……」
「ありがとう。全部読んでみたいけど、兵舎には私的なものをあまり持ち込めないので……今日はこれを頂きます」
三島は一冊の流行小説を手に取った。が値段を告げると三島は懐からその分を取り出して彼女の手に載せる。
「お一人で商売するのは大変でしょう」
「ほとんど道楽のようなものです」
「やっぱり、本がお好きでこの店を?」
「……もとは父の店です。私は二代目といったところですが……きっと父も本が好きだったのだと思います」
その父親は、とは聞けない雰囲気を感じて三島は口を噤んだ。あの寂しそうな表情がの顔に蘇る。一瞬の出来事だった。次の瞬間には、は再び書き物を再開していた。その姿を数秒目に焼き付けてから三島は軍帽を被り直し、購入した本を手に立ち上がる。
「さん」
「……はい」
「これ、ありがとうございます」
「……はい」
見上げるに「今日はこれで失礼します」と残し、三島は店を出た。扉が閉まったあともはしばらくぼんやりとすりガラスの先を見つめていたが、小さな家鳴りを合図に再び手元に視線を落として筆を走らせた。
桃源洞裡
2022/07/27