「ごめんください」
扉の外から聞こえた男の声に思考が遮断され、顔を上げる。店の入り口である正面のすりガラスには人影が映っていた。一見の客なんて珍しい。読みかけの本にしおりを挟んでいると建付けの悪い扉がけたたましい音を立てて開いた。薄暗い室内に陽の光が溢れ、一瞬眩しさに目を細める。北鎮部隊。戸外に立つ男を見て、口の中でその名を呟く。
「突然すみません。自分は陸軍第7師団第27連隊三島一等卒であります。お尋ねしたいことがあって参りました」
三島は扉を閉め、まっすぐ店主の座る帳場へと突き進む。彼が動く度、室内にはちらちらと埃が閃いた。雪のように漂う埃の白い粒が小さな窓から差し込む光の中で踊るのを一瞥し、三島は女の前で立ち止まる。担いでいた小銃を床まで下ろすと、帽子を取って小さく頭を下げた。女はその一連の動作を身じろぎもせずじっと見ていたが、三島が姿勢を戻したところで口を開く。
「北鎮部隊の兵隊さんが、このような汚い古本屋になんの御用です?」
「お邪魔してすみません」
「いいえ、この通り暇を持て余しておりますから。お気になさらず」
彼女が帳場の隅へと目を遣ると、三島もつられてそちらに視線を移す。いくつもの本が積み重ねられていた。そのほとんどにしおりが挟まれている。三島はその読書量に驚き「すべて読みかけですか」と尋ねようとしたが、そうする前に女が立ち上がった。暖簾をくぐり、店の奥へと消えた彼女を見送った三島はしばらくの間そこに佇んでいたが、やがて段差へと腰を下ろす。微かな水音と茶碗の鳴るような音に耳を傾けつつ店内を見渡すと、四方を本に囲まれた空間に圧倒された。天井まで届く書棚には古びた背表紙がぎっしりと並べられ、床の上にも本たちが乱雑に山積みされている。本の海にいるようだと息を呑んだ。締め切った店内は古本の臭いで充満している。普段なら不快にすら思うその古くなったインクの臭いも何故か彼の心を落ち着かせた。疲れているのだろうか。朝から晩まで入れ墨の囚人の情報を求めて小樽中を歩き回り、果てはこんな客入りの悪そうな路地裏の店まで来てしまった。こんな辺鄙な場所で有益な情報を得られるはずもない。きっと今回も無駄足だろう。三島は銃を抱えて一度深くため息を吐いてから立ち上がった。女が戻る気配はまだない。彼の歩幅で2歩のところにある書棚の前に立つと、ちょうど目線の位置にあった本の背表紙を指でなぞる。少し前に流行った小説だ。三島にもその題名だけは覚えがあった。その隣には分厚い西洋史、そのまた隣には古地図。……どうやら本の並び順に法則は存在しないらしい。本屋といえばなにかしらの分類によって整然と並べられているものだと思っていた三島は少々意外に思いながら周囲の棚に目を移すが、共通項は見当たらなかった。それとも彼女にしかわからない法則が潜んでいるのだろうか。そんなことを考えながら書棚の端まで背表紙の文字を追っていると、女が戻ってきた。その手にある盆には湯呑がひとつ乗っている。書架に立つ三島を見て一瞬動きを止めたが、ゆっくり瞬きをしたあとで盆を小さな卓袱台に下した。
「……粗茶ですが」
「ああ、これはどうも」
三島はさきほどの段差に腰かけ、いただきます、と一言添えてから湯呑を手に取った。女は彼が湯呑に口を付けるのをじっと見届ける。その視線はどこか悲しそうで、苦しそうで、どうにも落ち着かないものだった。三島が居心地の悪さを感じながら茶を啜り、茶托へ戻すとそれを見計らったように彼女が再び口を開く。
「本、お好きなんですか」
「いえ、恥ずかしながら読書はあまり。たまに新聞を読む程度です」
「……そうですか。で、ご用件は」
「失礼。実は今、ある男を探しておりまして、情報提供をお願いしたくお伺いした次第です」
「尋ね人ですか?」
「ええ、まあ、そんなところです」
三島は懐から四つ折りの紙を取り出した。いくつかの曲線が交わる、落書きにすら見える模様。目の前でそれを広げ、このような変わった入れ墨のある男を見なかったかと尋ねた。その紙の隅から隅まで目を通したあとで彼女が首を横に振ると、三島は落胆した様子もなく「そうですか」と呟き再び紙を懐にしまい込んだ。
「どうもお邪魔しました」
「はい」
「……あの」
「まだなにか」
「……す、すごい本の量ですね」
「古本屋ですから」
「この店はおひとりで?」
「いけませんか?」
「……いいえ」
取り付く島もない様子に三島のこめかみを冷汗が伝う。最初から感じていたが、客商売にしては不愛想すぎないか。彼女のこの愛想の無さも客入りに影響しているのではないだろうか。余計なお世話とわかってはいても、そう思わずにはいられなかった。
「その方の、お名前はご存知ないのですか」
「……え?」
「さきほどの入れ墨です。顔も名前もわからないのでは、探しようがありませんでしょう」
「ええ……ですから、我々も捜索に苦慮しているのです」
「なるほど」
女は納得した様子で頷いたあと、手元の本を開いた。もう目の前の男など忘れてしまったかのように続きを読み始める。その真剣な眼差しは三島を釘付けにした。綺麗だ、と思った。膨大な本に囲まれたこの狭い古本屋は異質で、神秘的で、その空間に溶け込む彼女もまたどこか浮世離れしているように感じる。三島から熱心に注がれる視線にも顔を上げようとはしない。彼女の世界には既に自分以外存在していないようだった。
「あの、」
「……はい?」
まだ居たのか、とでも言いたげな視線を受けた三島が一瞬たじろぐ。
「あの、お名前を……教えていただけませんか」
「……と申します」
「、さん」
「はい」
「素敵なお名前です」
「……それはどうも」
彼女の態度は最初から一貫して無関心、無表情。その顔には時折僅かに不愉快そうな感情が浮かぶことはあっても、決して大きく変化することはなかった。笑った顔が見たい。そんな欲求が三島の中で急速に膨れ上がる。
「また伺ってもよろしいでしょうか」
「……うちは本屋ですので」
「ええ」
「本を買ってくださるのでしたら、いつでもどうぞ」
そういう意味ではなかったのだけれど。体よくあしらわれたようで三島は苦笑を浮かべた。は明らかに三島に対して興味を示していない。それどころか瞳の奥にはどこか拒絶すら感じる。第七師団に……それとも陸軍に、なにか思うところでもあるのだろうか。
再び本へと視線を落としてしまったに別れの挨拶を残し三島は店を後にした。建付けの悪い例の扉を苦労してぴたりと閉めると、その外観を改めて見上げる。「世界堂」の文字が彫られた古びた看板が三島の頭上高く掲げられていた。近隣住民からの情報では、もともと彼女の父親が立ち上げた店だという。いつしか父親の姿は見えなくなり、あの年若いという娘だけが残されたらしい。――は独りであの本の海を漂っている。一体どんな思いで、この店を守っているのだろう。三島は本に埋もれて読書に夢中になる彼女の姿を思い浮かべた。
紫電一閃
2022/04/15