花押1

「二階堂さん、いい天気ですよ」
「寒い。閉めて」
「少し空気を入れ替えないと」
「いいから閉めろよ」
「……はい」
「二階堂。またさんを困らせているのか」

 静かに窓を閉めていた私の後方から、少し焦ったような月島さんの声がした。二階堂さんはふいとそっぽを向いてしまって、月島さんと顔を見合わせる。私がこの世界に来てひと月が経とうとしていた。所謂トリップというやつらしい。今いるこの明治の世が後の私が生きていた平成に繋がる世界なのか確証はなく、自分の知っている明治時代に限りなく近い世界、と思うことにした。最初に出会ったのがこの月島軍曹と鶴見中尉だったのが幸いして、運良く第七師団の預かり……というよりも鶴見中尉の預かりになった私は、タダ飯ぐらいは気分が悪いので働かせてくださいとお願いした。鶴見中尉は顎に手を当てて暫く考えた末、「二階堂の世話をしてもらおうか」とにこりと笑った。彼は顔に酷い怪我をされていて、常に額当てを付けている。初めて見たときはその眼力の強さと相まってぎょっとしたけれどよくよくみるととても端正なお顔立ちをされているのがわかった。日露戦争で怪我をしたと聞いたけど、きっと怪我をする前はさぞかしモテたんだろうことは想像に難くなかった。こんなハンサムなおじさまに微笑みかけられたら特別な意図がないとわかっていてもなんだか恥ずかしくなってくる。ところでこのとき、私は二階堂さんという兵隊さんを知らなかった。鶴見中尉の有無を言わさぬ隙の無い微笑に二つ返事で頷いたけど、どんな人だろう?と若干わくわくしながら対面したのがある意味鶴見中尉より迫力のある包帯ぐるぐる巻き男だったものだから鶴見中尉に会ったときよりぎょっとした。じろりと睨む彼はすべてを拒絶しているようで、思わず月島さんの背に隠れてしまった。自慢じゃないが学生時代地味グループに属していた私は絶対このタイプには自分からは近寄らない。というか近寄れない。怖くて。だから扱い方もわからなくて初日から月島さんに泣きついて慰められた。約ひと月経った今でも二階堂さんへの恐怖心はなかなか取れず、少し、いやかなり?距離感を保ったままお世話係という名のパシ……雑用をしている。

「そろそろ包帯替えましょう」
「嫌だね」
「二階堂!」
「…………一生そのままでいるつもりですか?」
「あ?」
「そんなに死にたいなら止めませんけど、包帯の交換しないなんて不衛生にもほどがあると思いますよ。私がお嫌いなのかなんなのか知らないですけどそんな駄々っ子みたいに意地張ってイヤイヤして、感染症でぽっくり死んでもいいんですか?」

 ちなみに本当にそんなことになるのかは知らない。完全なはったりだった。堪忍袋の緒が切れるってこういうことなのかなあと未だ怒りで沸騰した頭で考えていたら、みるみるうちに二階堂さんの顔が歪んでいった。お、やるか?と両手をぎこちなく構えたけれど、鉄拳は飛んでこなかった。

「……わかった」
「え、」
「わかったから、早く替えろ」
「あ、ハイ」

 その命令口調に対するせめてもの反抗で少しきつめに包帯を巻いておいた。勿論後で緩めておいたけど。月島さんが優しいだけに、二階堂さんの子供っぽさが際立つ。はあ、とため息を吐いたらまた二階堂さんにじろりと睨まれた。

ゆめみる不定形::ハイネケンの顛末