世界が東雲に変わってゆく1

※帝国陸軍入隊前から日露戦争出征前くらいまでのお話。


 私は北海道の小さな村に生まれた。
 父が営む銃砲店には絡まれたらヤバそうな男から訳あり風の女までいろいろなお客さんが訪れる。小さな村の小さな銃砲店というのはきっと、そういう人目を避けたい人間にとっては都合がよかったのだろう。日清戦争に出征した父が片足を失って帰国したあと、急に始めると言いだしたのがこの銃砲店だった。

「ととさま、私もこれ撃ってみたい」
さんにできるかい?」
「うん、兄さまが撃つの見てたから」
「では、あの鳥を撃ってみてごらん」

 なんとか、という銃を父から受け取って、木にとまって休んでいる鳥に向けて銃弾を撃ち込んだ。耳障りな銃声のあと、少し離れたところにいた鳥はぱさ、と小さな音を立てて地に落ちる。

「すごいねさん」
「これなら私も兵士になれる?」
「……さんは女の子だから、兵士は無理だよ」
「どうして女は兵士になれないの?」
「そういう決まりなんだよ」
「どうしても?」
「どうしても、だよ。それに」

 首を傾げる私に向かって、父が口を歪めた。それは笑っているようにも見えたし、怒っているようにも、泣き叫んでいるようにも見えた。父の輪郭が次第にあやふやになり、どろりとした赤黒い粘着質の液体となった。その父だった” なにか ”は、笑ながら、怒りながら、そして泣き叫びながら、私に覆いかぶさろうとしていた。





      さ ん が 鳥 を 撃 っ た か ら 、今 度 は さ ん の 番 だ よ







 最近割と頻繁に怖い夢を見るのだけど、起きた時には怖かったということしか覚えていなくてもやもやするということが続いている。隣で静かに眠る兄の姿を見て、私は現実に戻ってきたことを知った。真冬だというのに酷い寝汗をかいていて、不快な感触が体中を這いずりまわっていた。屯田兵に志願した兄についてきて初めての冬だ。兄は「一緒に行くか?」と、ちょっと街まで買い物に行こうぜ的なノリで誘ってきたけど、言葉の軽さとは裏腹に兄の目はやたら真剣で、戸惑ったのを覚えている。しかし実際兵村での生活が始まるとキツイなんてものじゃなかった。ここは地獄だった。なんだか騙されたような気分になった私は数か月の間ずっと不機嫌だった。兄は優しい人だ。過保護なほど優しくて、ちょっとかすり傷を作れば大慌てになるし、私が父に頼んで銃を撃たせてもらった時は「女の子が持つものじゃない」と父ともども説教された。鬱陶しいと思うことも間々あったけれど、いつも私のことを考えてくれていたのはわかっているつもりだ。その兄が私をこんなところへ連れてくるなんて、と裏切られたみたいで少しショックを受けたのだけど、まあ、兄ももしかしたらこんな過酷な環境だなんて知らなかったのかもしれないよなと思いなおしたのはここでの生活に慣れた頃だった。でも矢張り、あの時の兄の真剣な目が今でも脳裏に焼き付いて離れない。私を連れてきたいよっぽどの事情があったのか。

 屯田兵とは、北海道開拓と北方警備を主な任務とする集団である。兄は日中ほどんどの時間、訓練を受けていて帰るころにはくたくた状態だった。私も私で毎日一人黙々と開墾作業に勤しんでくたくたになっていた。体力はないけれど体を動かすのは好きだから、そこはあまり苦ではない。寧ろ偉い軍人さんからのお小言の方が精神的にくるものがある。

「兄さま、教練と開墾てどっちが大変?」
「……やっぱり、辛いよなあ」
「この生活が辛くない人いたらたぶんその人は変態だと思うよ」
「……すまん」
「なんで謝るの?」
「連れてきたのは俺だし……」
「でも行くって決めたのは私だよ。……そりゃ、初めの頃は詐欺にあったのかと思ったけど」
「…………すまん」
「ねえ、それより、訓練てどんなことやってるの?」

 お前は相変わらずだな、と兄は笑った。幼い頃から私はととさまみたいな強くて勇敢な兵士になりたいと騒いで、周囲を困らせたものだ。その憧れの対象である父に「女は兵士になれない」という残酷な現実を突きつけられてからも、兵士にはなれなくても強くなることはできると信じて見よう見まねで武術や銃器の扱いを学んでいた。小さな子供のように毎晩話をせがむ私に、兄は過酷な訓練の話を面白おかしくお話してくれる。父は陸軍での話をあまりしたがらなかったから、初めて耳にする自分には縁のない遠い現実の物語が楽しくて仕方なかった。

「現役が終わったら、小樽にでも行くか」
「なんで小樽?」
「あそこは栄えているから何かしら仕事があるだろうし」
「それもいいけど、兄さまは早く結婚してよ」
「お前がしたら俺もするからお前が先に結婚しろ。二軒先の息子がお前を気に入ってるらしいじゃないか」
「私はね、結婚できないんじゃなくて、あえてしないの。それに私の好みはもっとこう、冷静沈着な感じの人なんだよね」
「女ひとりでどうやって生きて行くつもりだよ」
「……まあ、なんとかなるんじゃない?一人で生きてる女の人だって居ないわけじゃないでしょう?」

 そう反論した私に兄からの追撃はなくて、お前にはかなわないなあと苦笑いするだけだった。兄は父と似て気の弱い部分があるから、あまり意見したり、声を荒げたりはしない。自分と意見が食い違っていたり何か言いたいことがある時は苦笑をもらすだけだった。兄は今、何を考えているのだろう?きっとこう言いたいのを我慢しているのだろう。そうやってゲームのように兄の考えを当てることもまた楽しみの一つだ。

 けれど、床に臥せる兄が一体どんな思いでいるのかは、寒さで凍える以外ピンピンしている私には考えも及ばないことだった。医者の診断では人にうつる類の病ではないそうだが、兄は日毎に痩せていき、起き上がることも難しいほど衰弱していった。「感染病じゃなくてよかった」と心底嬉しそうに零されては悪態もつけないじゃないか。こんな状態になっても私の心配しているなんて嬉しいけど、嬉しくない。そんな気遣いするくらいなら、私を残してなんていかないでよ。ここに来たときみたいに、私も連れて行ってよ。そう言ったらいつもみたいに苦笑するのだろうか。けれど今は、兄の困った顔なんて見たくなかったから、静かにぎゅっと兄の手を握った。