私は自他共に認めるバカである。今まで何度も聞いて来た尾形上等兵からの意味深発言もほとんど理解していなかった。尾形上等兵も敢えてわからせようとはしない……というか最初から伝えるつもりなどないのかもしれないけれど、そんな調子だから真相は全て尾形上等兵だけが知るところだ。
今回もその類らしく、尾形上等兵は私の答えを待たずにアシリパさんたちのもとへさっさと行ってしまった。彼は一体どんな答えを望んでいたのだろう。……私は、なんと答えるつもりだったのだろう。たとえばこう問われたなら。そんなもしもの話であればきっと「勿論どこまでもついていきます」と即答できたはずなのに。本当に、現実はままならないことばかりだ。私は目を閉じて深呼吸した。痛いほどの冷気が鼻孔を抜け、口から白い水蒸気となって出ていく。覚悟が足りなかったということなのだろう。でも尾形上等兵にはそれがある。目的のためならどんな相手でも手に掛ける覚悟が。戦争はもう終わったというのに、貴方は誰と戦っているというのですか。きっと答えなど帰ってこないであろうその疑問は、口にすることができなかった。
キロランケさんが用意した犬ぞりに乗って私たちはさらに北を目指す。今のところあまり実感はないけれど、私たちは確実に北海道から遠ざかっていた。道中で狩りをしたり、キロランケさんから樺太アイヌの話を聞いたり……それはそれで楽しいけれどどこか腑に落ちない。本当にこれでいいのかと、私の中の私が疑問を呈している。なにを考えているのかわからないのは尾形上等兵だけではなかった。
「ほら、も」
そう言ってキロランケさんが私の鼻先に切り取ったばかりの麝香嚢をぶら下げた。なんとも形容し難い強烈な匂いである。これが香水の素になるだなんて信じられない。キロランケさんは私たちの反応を見て楽しそうに肩を震わせていた。
麝香鹿には決まった寝床を持たない、という習性があるらしい。そんな雑学からキロランケさんとウイルクさんの話になると、アシリパさんはまたひとつ父親の記憶を思い出して笑顔を浮かべた。アシリパんさんはすっかり以前のような元気を取り戻している。少なくとも傍目にはそう見えた。それ自体は良いことのはずなのに……素直に喜べないのはこの二人のせいだ、と彼らを盗み見る。どうにも胡散臭い、というのが最近の印象だ。キロランケさんとは付き合いが短いので気のせいと言われてしまえば終わりかもしれない。けれど尾形上等兵は……勘違いなんかじゃないと自信を持って言える。伊達に長い間追いかけて来たわけじゃない。ばかみたいに好き好き言っていただけじゃないんですよ、尾形上等兵殿。
私は尾形上等兵の後ろ姿をじっと見つめる。が、当然こちらに気付く様子もない。いつもそうだ。どんなに視線を送ったって気付いてくれやしない。いや、気付いているけれど見てくれないだけか……どちらにしろ私にとっては同じことなのだけど。
「は本当にいつも尾形のことを見ているんだな」
つい尾形上等兵に集中していたらいつの間にか横に並んだアシリパさんが居た。第七師団でもそうやって度々揶揄われていたけれど、彼女はバカにしたような態度なんかじゃなくて…………ああ、そうか。
「アシリパさんと一緒ですね」
「…………?」
「アシリパさんも、いつも杉元さんのことを目で追っていたから」
「なッ……!見てない!」
「えぇ……?あ、もしかして内緒でした?」
耳を真っ赤に染めたアシリパさんは「急におかしなことを言うな!」と泣きそうな顔で怒っていて、普段の落ち着いた彼女とは思えないほどの動転っぷりに思わず吹き出してしまう。こういうところは年相応なんだなと微笑ましくなると同時に自分と大違いの可愛らしい反応が羨ましくもあった。
「杉元は相棒だからな。相棒を心配するのは当然だ」
どうやらアシリパさんは「相棒」という言葉によってある種の予防線を張っているらしい。私は「なるほど」と納得するふりをした。あまり揶揄いすぎても可哀想だ。子供の時って妙に年上の人が輝いて見えるんだよな。かくいう私も一時期年上の兵隊さんに憧れていた時期があったので、もしかしたら誰もが一度は通る道なのかも。
尾形上等兵とキロランケさんの相談はまだ終わっていなくて、要するに手持無沙汰だった私はついひとり言のように吐き出した。
「……ずっと見てきたはずなのに、最近はよくわからなくなってしまいました」
「わからない?」
「どれが本当の尾形上等兵なのか、わからないんです」
一体なにを話しているんだろう。大人びていてもアシリパさんはまだ子供なのに。それでも誰かに打ち明けることで自分の頭の中が少しだけ整理されていくのがわかった。最近の彼を見ていて感じる底知れぬ不安は、自分の知らない尾形上等兵が垣間見えてしまったせいなのかもしれない。考えてみれば当然のことだ。ここは兵営でもなければ陸軍の中でもなくて、彼は今兵士であって兵士ではない、宙ぶらりんな存在である。陸軍の彼しか知らない私にとって、全てが新鮮に見えてしまうことにはなんの不思議もないはずだ。
「人にはいくつもの顔がある」
アシリパさんがぽつりと呟く。私に向けられているようでいて、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「私も、樺太に渡ってから新しいアチャの顔をたくさん知った。私の知っているアチャが、アチャの全てではない。キロランケニシパと一緒の時の顔、樺太で過ごした日々の顔……きっとそれぞれ違うけど、全部本当なんだ」
知らない間にきつく握りしめていた私の拳にアシリパさんが掌を重ねる。安心させるように、そっと、優しく。その小さな手を握り返して再び尾形上等兵へと視線を移した。今私の瞳に映るのは、私の知らない尾形上等兵なのだろうか。ふと、彼がこちらに気付いて体を向けた。なにを考えているのかわからない。……けれどそれは今になって始まったことではなはずだった。それなら、こんなに不安を抱くこともないはずなのに。
「それでも、まだ不安か?」
「不安……だけど、でも、もっと知って、理解したい……かな」
「……そうか。私も同じだ」
「尾形上等兵の場合、知れば知るほどわからなくなりそうなのが怖いけど」
ぽそっと付け足すとアシリパさんも苦笑していた。やっぱり彼女から見ても尾形上等兵は謎の人ということなのだろうか。どこかに消えていた白石さんがひょいっと現れて私たちの輪に加わったのを合図に小さな女子会はお開きとなった。思えば、アシリパさんとサシでこんなに長く会話をしたのは初めてだった気がする。