ぽつりぽつりと地面に丸い点を描くだけだった雨が本降りになったのはあっという間の出来事で、私と杉元さんは足止めを余儀なくされた。とある街での買い出しの途中、お目当ての物を手に入れてさあ帰ろうとした矢先だった。「空き家」の札が揺れる軒先を借りて二人で空を睨む。すぐ止むだろ、そうですね、なんて笑っていたのに、雨脚は強くなる一方で、足元に弾けた雫が私たちの下半身を容赦なく濡らしていった。

「ちょっと中で休ませてもらおうぜ」
「え、だめですよ……一応人の家なのに」
「怒られたらあとで謝ればいいさ」

 私の制止もなんのその、杉元さんは早速玄関扉に手を掛けた。が、当然鍵がかけられていてびくともしない。その様子を見て、壊したりしないだろうかなんて少しハラハラしたが早々に諦めた杉元さんは私を残して裏へ回った。雨のせいか少し肌寒い。体が冷えるのを感じてふるふると身震いしていたら家屋の陰から顔を出した杉元さんに呼ばれた。どうやら入口を見つけたらしく、早く早くとこちらに向かって手招きしている。
 杉元さんは鍵の掛かっていない勝手口からまるで自分の家かのように堂々と入ていった。まだ僅かに罪責感の残った私が躊躇したまま立ち尽くしていると「風邪引くから早く入りなって」と促され、漸く足を踏み入れる。扉を閉めてしまうと拍手喝采を浴びていたような激しい雨音は急に小さく遠くなった。まだ立ち退いてから日が浅いのか、埃もほとんどなく綺麗な状態の床に大きな荷物を下ろした杉元さんは私を残して奥へと入っていく。私もそっと荷物を下ろし、厨の隅に膝を抱えて座った。着物の裾が濡れてしまって、ぎゅっと絞ると水が滴った。足先から全身へと冷たさが伝わっていくようで私はまた肩を竦めて身震いする。いっそ私も杉元さんみたいに長靴に変えてしまおうか、などと考えつつ体の水分を払っているとどん、どん、と無遠慮な足音を立ててその杉元さんが戻ってきた。

「奥に囲炉裏があった」
「……使う気ですか?」
「濡れたままじゃ風邪引くだろ」
「……」
「見つかっても俺がなんとかするから」

 そうは言っても使ってしまえば自分も共犯なのだから杉元さんだけに罪を被せるのは気が引けるのである。そんな複雑な心境も伝わってないらしく、杉元さんは私の手を引いて強引に廊下を突き進むとすぐに囲炉裏のある部屋へたどり着いた。

「薪はあったけど……湿気てるかも」

 杉元さんが自信なさ気にマッチを擦ると幸か不幸かその火は無事薪に移ってみるみるうちに大きくなっていった。こうなってしまえばもう成り行きに任せるほかない。開き直った私は小さな炎に手をかざして冷え切った体を温めることにした。杉元さんはやはり長靴のおかげでひざ下などは殆ど濡れた様子もなかったが、雨の飛沫はお腹の辺りまで飛び散るほど激しく彼の青色の上着は水を吸って更に濃い群青へと変化していて、それを背嚢に被せるみたいに広げて乾かしていた。そのように濡れそぼっていたのは私も同じだったものの、杉元さんのいる前で着物を脱いで乾かすという選択はできそうにない。なぜなら杉元さんに余計な気を遣わせてしまうからである。隠すつもりはなかったのだけど結果的に隠しているようになってしまい、杉元さんは私と出会ってからしばらく経って漸く私を女だと認識したはいいのだが、それ以来どうにも私への態度に困っているような気がしてならない。特に肌を見せるという行為についての抵抗が強いようで、陸軍に属していたから慣れていると言ってもだめだった。たしかに普通なら家族でも恋人でもない男の前でそう簡単に裸を見せたりしないのだろうと一応の納得はしているし、杉元さんが嫌だと言うなら当てつけのようにわざわざそうするつもりもなかったので気をつけてはいたが、それでも私の胸にはなにかもやもやとしたものが留まり続けている。杉元さんへの不満ではないのはたしかだが正体は未だにわからなかった。

「結構濡れたな。寒くない?」
「少し……」
「…………あ、そうだ。毛布貸してやるよ。毛布で隠せばあんたも着物脱いで乾かせるだろ」

 言いながら差し出された毛布を受取拒否できるはずもなく、私は小さな声でお礼を言ってそれを受け取った。杉元さんはすぐに後ろを向いてしまった。どうやっても気を遣わせてしまうらしい。気付かれないようにため息を吐き、それでも彼の優しさは嬉しくてむず痒くて口元が歪んだ。これは現実なのだろうかとさえ思う。杉元さんが戸惑っているのと同じように私もまた戸惑っていた。普通の女ならばこんなときどのように反応するのだろう、自分は普通のことすらわからないのかと絶望したし今から学習するには遅すぎる気もする。
 雨水で冷えた袴を解き、代わりに毛布を全身にすっぽり被ると目の前で静かに燃える炎のおかげで氷みたいに冷たかった足先が少しずつ体温を取り戻し始めた。

「アシリパさんたち、心配してますかね」
「そうだな……でもこの雨じゃ仕方ないさ」
「大家さんに見つかる前に帰りたいですね」
「大丈夫だろ」
「何の根拠があって……」
「…………カンだけど」
「……でも、杉元さんの勘って良く当たる気がします」
「そうか?」

 勘が鋭く、だからこそ判断も早い杉元さんには何度も助けられてきた。生死に関わるときには殊更勘が冴えているのに、普段の彼は結構抜けているところがあるのがなんとも不思議で、そしてどこか悲しい。そうならざるを得なかったのだろうと、私は表情を曇らせる。抗えない大きな力によって彼のなにかが狂ってしまったのだ。杉元さんは自分のことを殆ど語らないから、それこそただの勘だが、私もその大きな力によって運命を捻じ曲げられた者のひとりだからなにか通じるものがあったのかもしれない、などと無理やり理由をこじつける。背を向ける杉元さんに私もなんとなく背を向け、お互い薪を挟んで背中合わせの状態になると、特に話すこともないので自然と沈黙が流れた。聞こえるのは雨音と、薪の弾ける音だけだ。そういえば杉元さんと完全に二人きりになるのは初めてかもしれない。と意識した途端に緊張が走り、なにか話さなくてはと内心焦りながらもそういうときに限って話題は出てこないもので、元来あまりおしゃべりが得意でない私は意味もなくあたりを見回した。

「どうした?」

 声がかかり、私はどきりと振り返った。同じように顔だけをこちらに向けていた杉元さんと目が合って暫し見つめ合う。

「あ……」
「……なに?」
「……い、え、なんでもない、です……」

 それしか言えない自分が情けない。首を戻して殻の中に閉じこもるようにして毛布を頭から被ると、自分のものでない匂いがふわりと漂った。決して良い匂いとはいえないが何故だか不快ではない、そんな不思議な感覚を自分の中でどう解釈すればいいのかと首を傾げる。また暫くの沈黙。どうしても落ち着かなくて、今度は目だけをきょろきょろと動かしたが、がらんどうが視界に入るだけだった。何気ない会話というのは、皆どうやっているのだろう。何気ない会話がわからない時点でそれを実行することは絶望的な気がしないでもないが、このときの私は真剣に思い悩んだ。そうだ、アシリパさんや白石さんを思い出してみようと思っても、アシリパさんは食材や狩りとかオソマの話ばかりしているし白石さんは白石さんで私には到底真似できないような話術を持っているから残念ながら上手くいく未来は描けなかった。早く雨止まないだろうか。

「初対面のとき以来だよな」
「えっ」
「いや、ほら……とはゆっくり話したことなかったなと思ってさ」
「……あのときも別に、ゆっくり話せたわけじゃないですけどね」
「まあたしかに」

 今私たちが思い出している『あのとき』とは杉元さんが入れ墨の囚人を探している途中ニシン蕎麦を食べているところに私が乱入したときのことだ。厳密に言えばあれは初対面ではないのだけれど、もしかしたら杉元さんはもう忘れてしまったのかもしれない。ともかくこれが切っ掛けで私は刺青人皮の存在を知り、そしてちょっとした好奇心から旅に同行することにしたわけだが、今考えればなんだか大変なことをしてしまったような気がしてならなかった。人生には勢いも大切だが熟考もまた大切だと改めて思い知らされた。決して後悔しているわけじゃない、でも、軽はずみな行動は控えようと誓ったのも事実だ。まさか戦争が終わってからも命の危機に直面するとは考えもしなかった。ひとつ良かったことがあるといえばやっぱり、彼らに出会えたことだろうか。杉元さんたちと過ごす中で私は自分が変わっていくのを感じていた。中でも一番影響を受けているのはきっと……。
 ちら、とまた振り返ってみると、あろうことか杉元さんも同じくこちらを見ていた。私たちはまたしても数秒間目を合わせたまま固まった。杉元さんの目がなんだよ、と訴えているような気がするが私は目が離せなかった。茶色がかった瞳は薄暗い室内で炎の色を反射して鈍く燃えている。私はいよいよ耐え切れなくなり、すっと視線を外した。

「俺の勝ちだな」
「……勝負してたつもりはないんですが」
「いいだろ、細かいことは。どうせ暇だし」
「……なんか腑に落ちないのでちゃんと勝負してくださいよ」
「いいけど、なにする?」
「ええと……」
「俺が勝ったらデコピンな」
「えっ!?」
「あ、さっき勝ったから1回は確定だぜ」
「いやさっきのはなしにしてくださいよ」
「やだ」

 手元は見えないがばちんばちんと不穏な音が聞こえてくるのできっと予行演習をしているのだろう。音だけで痛そう。あれを複数回食らうのは御免蒙りたい。私が勝ったらなにをお願いしようかと考えていたら「なにで勝負するか決めた?」と急かされて、そうだった勝負の方法も決めないとと思考があっちこっち行っている間に窓の外が白んできたのに気付く。

「残念、雨が上がったみたいだな」

 ほっとして広げてあった袴を手に取る。まだ湿っているけどあとは歩いているうちに自然と乾くだろう。元通り着直してから杉元さんに毛布を返却し、勝手口へ向かおうとしたら腕を掴まれ一瞬ぎょっとした。

「なんか忘れてない?」
「……いえ、別に」

 杉元さんが無言で自分のおでこを人差し指でトントンと叩いてみせたので思わず後ずさりしたが、しっかり腕を掴まれたままで逃走は不可能だと悟り顔が引きつるのを感じた。でも悪戯っ子みたいな顔をする杉元さんは貴重なので少しだけ得をした気分でもある。

マクスウェルと1/1000のゆらぎ::ハイネケンの顛末
杉元さんのデコピンは超絶痛そう(個人の妄想です)