最果ての熱砂1

 ふいに、外の喧噪で目が覚めた。
 少し仮眠するつもりが思いのほか熟睡してしまったようで、仕事の時間が迫っていた。なんだか嫌な夢を見た気がするが、すでに私の頭から夢の内容はすっぽりと抜け落ちていて思い出すことはできなかった。まだ頭は覚醒していないようでぼーっとしながらも、支度をしなければと思っていたところに声がかかる。

、起きているか」
「はい」
「すまんが、表に行ってくれないか」
「なにか問題でもありましたか?」
「まあ……大したことではないんだが」
「すぐに参ります」

 なにやら外が騒がしいが大した問題ではないということはいつもの喧嘩だろうかと考えながら急いで身支度を整える。仕上げに刀を差せば一丁上がりだ。廃刀令のあとも私は刀を差していたが 私の雇い主であるこの売春宿の主が色々と話を通してくれたようで、この町の中だけでいえば私の帯刀は黙認されていた。と言っても私はこの町どころかほとんど店の敷地外には出ないのでお店のおじさんが心配するようなことはなにも起こらない。それに刀を見た人間はもれなく「竹光だろ?」と半笑いで指をさしてくる。私としては刀身を抜いて脅してみても構わないけれど大抵は口だけが達者な酔っ払い相手なので実際に抜いて見せたことは数えるほどしかなかった。申し訳程度に身なりを整えた私は鏡に映る覇気のない顔をぱちんと両手で叩き、よしと小さく呟く。店の外に出ると北の地のピリピリとした寒さが顔に突き刺さった。外に出た時のこの感覚にまだ馴染めないでいる。寒い、というよりも痛い、の方が近かった。結構厚着をしているにも関わらず肩と唇を小刻みに震わせる私とは対照的に平気そうな顔で客引きをしている女たちに声をかける。

「こんにちは」
「あら、伊織ちゃんちょうどいいところに」
「なにかあったって聞いてきたんですが」
「ああ、大したことじゃないのよ」
「お嬢ちゃん、さっきの紙見せて」
「こんな入れ墨の入った男を探している」

 声の方に視線を下げると女たちの陰からアイヌの民族衣装に身を包んだ少女がひょいと顔を出した。親御さんでも探しているのかな?と思いつつ自分の方へ差し出された紙を見る。それは見たこともない変な模様だった。こんなもの見たら忘れなさそうだし、あちこちで話題になりそうなものだけど、生憎そのような話は聞いたことがない。
 ゆるゆると首を振り、ごめんね、わからないですと言いかけた時、妓夫の大男がアイヌの少女をつまみあげて侮蔑的な言葉を吐いた。まだまだアイヌの差別的な思想はなくなっていないのだ。しかしアイヌの少女は表情を変えず持っていた小刀の柄で妓夫の顔面を殴りつけ、ひらりと地面へ着地する。戦い方を心得ているような無駄のない動きに素直に感心したと同時に、まるでこの扱いに慣れているみたいに動じない様を見て自分にはどうしようもないことではあるが遣る瀬無さを感じてしまった。

「このクソガキ!」
「おい、俺の親指をミロ」
「ああ?なんだお前」

 どこからともなく現れたお兄さんが妓夫の肩をぽんと叩き、間髪入れず急所を突いた。アイヌの少女の連れだろうか。それはわからないが、確実に急所を狙えるという点でこのお兄さんも戦いに慣れているということは確かだ。息を吸い込もうとしているのか男は「ガヒュー」と聞いてるこっちが息苦しくなるような声にならない声を上げ涙目でせき込んでいる。私はその痛みと苦しみを想像して顔を顰めた。お兄さんは何食わぬ顔で男の頭を抱え込み、無理矢理さきほどの入れ墨の紙を見せて「この入れ墨に見覚えは?」と確認させようとしている。やはり見覚えはないようで男は一生懸命首を振っていた。必死すぎて涙やら鼻汁やらも揺れている。うわぁ。

「でぼ……おなじことをまえに、聞いてきた男がいだ」
「考える事は同じか」

 何のことかわからない私たちは首を捻ったがアイヌの少女とその仲間であろう軍帽を目深にかぶったお兄さんには十分収穫となったらしく満足気に帰っていった。奇妙な組み合わせの二人が去った後も私の頭の中には軍帽を身に付けた男の顔がちらついていた。どこかで見たことがあるような、ないような――そんなふわふわとした掴みどころがないようで喉の上の方でつっかえている様な気持ちの悪い感覚で記憶を探ったが一向に答えは見つからなかった。
 この街にも軍人は居る。旭川に駐屯している帝国陸軍の師団だ。北鎮部隊とも呼ばれ地元民は有難がっているようだが、ガラの悪い連中ばかりなのでなるべく近寄らないようにしたいというのが個人的な感想だった。くう、と情けなくなった自分の腹の音を合図に、その中の誰かだろうと適当に結論をつけた私は夕飯を食べるべく店の中へと戻った。

 私が北海道にきて初めての冬だ。雪を踏んでいるだけで、その冷たさが足の先から頭のてっぺんまでじわりと染み渡るような感覚。長く居た関東でも雪は降ったが、寒さは比べものにならないと思う。早々に襟巻を買っておいて正解だったなと浅葱色の新品の襟巻をきつめにまいて体をちぢこませながら両手を擦っていたら、デカブツ……と呼ぶと怒るデカブツの男が「大丈夫か?」と笑いながら私の様子を伺った。向かいの店で客引きをするこの男は強面で口も悪いが話してみれば意外ととっつきやすい。まあ多少……短気で喧嘩っ早い面はあるけれど。そんな軽装でよく平気ですね?と言おうとしたが私の唇はぷるぷる震えただけで声にならなかった。それを見た男が私の心を読んだかのように「まあ、こんなもん慣れだ慣れ」とまた笑ったので私もつられて笑う。

「おいデカブツ」
「あぁ!?」

 禁句を言ったのは誰だ。「デカブツ」という単語に反応した男が勢いよく声の方へ方向転換する。短気な人だなあ、と呆れながら私も声の主を見ると、この間の軍帽を被ったお兄さんだった。今日はあのアイヌの少女は連れていないんだな、と私は辺りを見回す。この前は気付かなかったが、お兄さんは顔に大きな傷あとが残っていた。喧嘩で負ったのか、それとも……戦争だろうか。戦い慣れているという印象は受けるものの、だからと言って喧嘩に明け暮れているようには見えない。いつの間にか観察するように凝視していたら、視線に気づいたお兄さんは軍帽をぐい、と下げた。あまり顔は見られたくないのかもしれない。最近変わったことがないか、と男に尋ねているところを見るに、この間の入れ墨はまだ見つかっていないようだ。

「ああそうだ、あるぜ!知り合いの店の女がよぉ、客に大けがさせられたんだよ」

 そういえばこの間、近くで騒ぎがあった気がする、と私は記憶を遡った。その日は一日寝ていたし興味もなかったので詳しいことは知らないが、妓夫の話からすると要するにその犯人が軍人さんのお目当てではないかという話だった。有力情報を仕入れたお兄さんは早速その店へと大股で向かっていったので、お店の中に「ちょっと出ます」と一声かけて私も後を追う。この間からお兄さんのことが気になっていたところだ。気持ちが悪いので、その正体を確かめてすっきりさせたい。

「おばちゃーん、自分にも同じのくださいな!」
「うおっ!?」
「相席いいですか?」
「お、おぉ……?」
「お兄さんは軍人さんですか?第七師団の人、じゃないですよね?」
「元第一師団だ。それに満期除隊してる」
「そうだったんですか、お兄さんとても強そうだからもしかしてと思ったんですけど」
「……あんたは?」
「あ、申し遅れました、自分はと申します。この近くのお店で用心棒をやっておりまして小樽に来たのは昨年です」
「……杉元だ」
「この前のアイヌの子、今日はご一緒じゃないんですね」
「あの子は……もう連れてこない」
「そうなんですか?」

 歯切れの悪い杉元さんを不思議そうに見ているうちにニシン蕎麦ができあがった。自分好みの濃い目のつゆにとろけるような口どけのニシンが絶品だ。

「こいつはヒンナだぜ」
「それ、アイヌの」
「知ってるのか?」
「はい、実は、小樽に来てすぐの頃、森で迷ってたところをアイヌの子供に助けられまして」
「奇遇だな、俺もこの前アイヌの子供に命を助けられた」
「それってこの前一緒に居た女の子ですか?」

 杉元さんが私の問いに答える前にガラガラと店の戸が開いたので条件反射でそちらを見ると同じ顔が二つ店の中を覗き込んでいた。「どの男だ?」「入れ墨のことを探ってる奴は」同じ顔が交互に口を開く。それに答えるおばちゃんの台詞からして、二人が探しているのは杉元さんのことだろうと瞬時に察した。なんだか面倒なことが起こりそうな予感だ。杉元さんも同じく目当てが自分だとすぐに判断して、文字通りあっと声を挙げる間もなくその双子に向かって飛び蹴りをお見舞いした。店の外にはすでに第七師団と思われる紺の軍服集団が大勢待ち構えていいて、とてもじゃないが杉元さん一人では太刀打ちできそうにない。助けたいのはやまやまだが店に迷惑がかかることを考えると安易に手を出すわけにもいかず、私は唇を噛み締めてその様子を見守った。

「殺そう殺そう」

 取り押さえられた杉元さんが先ほどの双子の片割れに何度も何度も力いっぱい殴りつけられる。それも銃床で、である。顔の骨が折れていないだろうか。正直杉元さんのことは何も知らないが、こんなに痛めつけられるほどの凶悪犯罪をおこすような人にはとても見えない。いや、人は見かけによらないというからもしかして殺人でも犯した指名手配犯だったりするのだろうかと想像したところで、そういえば杉元さんは元第一師団と言っていたことを思い出した。もちろん日露戦争にも出征しただろうし、そこで生き残ったということは言わずもがなである。
 出征した時点で大半の人間は本人が望む望まないに関係なく殺人というものが身近になる。殺さないと生き残れないし、もちろん相手も同じだ。戦争中はそうやって大義名分が立つけれど、除隊後はどうだろう。罪悪感に苛まれて押し潰される者もいれば、何事もなかったかのように日常へと戻っていく者もいるはずだ。最悪なのは人を殺すことに悦びを見出してしまうことだろう。杉元さんがそうだとは言わないが、あり得ないことではない。
 可能性としてはもう一つ。彼の戦い方には躊躇が無いように感じた。戦場において躊躇しないというのは結構大事な要素であることは私自身嫌という程わかっているが、それは戦争という非常事態で必要になるものであり、日常に戻った後は邪魔とまでいうつもりはないものの時として自分の身を滅ぼすことだってある。杉元さんもその口なのだろうか。表面上の印象からはそれが一番しっくりくる気がした。
 なんにせよ、本人から聞いたわけではないのでこれはあくまでも私の推測でしかない。しかしもしも彼が凶悪犯罪に手を染めた指名手配犯だったとしても、あれはやりすぎじゃないだろうか。銃床で何度も何度も顔を殴られた杉元さんが口から血の泡をふいているのを見てやっぱり仲裁に入ろうかと考え直したとき寒空に銃声が鳴り響いた。

「そこまで。まだ殺すな」

 目の周囲の皮膚が剥けた異様な姿の軍人は死神を自称した。重傷の杉元さんが連れて行かれたあとも、私は『死神』の姿が脳裏に焼き付いたまま動けなかった。

 あれは自分と……そして杉元さんと同じ何度も死線を潜り抜けた人間だ。